2015年2月15日日曜日

高松次郎展 ミステリーズ

国立近代美術館で行なわれている「高松次郎ミステリーズ」に行ってきた。
高松次郎氏は以前より私が敬愛する作家である。
わかりにくいこの作家の思考世界を丁寧な解説でみせてくれている好展示だった。
説明文が多い展覧会でもある。作品タイトルの下に長々と説明がある。観客はその文書を読みながら、高松氏の思考をたどっていく。時間はかかるがこのような丁寧な展示方法は非常にありがたい。


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□ 或る問題

世界というものは、自分も含めた世界全体というものは、どういう仕組みで成り立っているのか?
それは大問題だ。
なぜなら答えを出すべき本人が、この世界の中に居るからだ。
もし世界全体を目の前に取り出して、机の上に置いて観察するような感じで見ることができたら、どんなに良いだろう。
しかし残念ながらそうはいかない。
なぜなら、その机の上の世界は、私を含んでいない。
世界についての答えを出そうとするならば、答えるべき主体である私も問題の中に組み込まれなければならない。
答えることは不可能な問いだ。
そして高松氏は、果敢にもその不可能に挑戦する。

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□ 点について

高松氏は、まず世界を成り立たせることの一つに遠近法の消失点を求めた。
遠近法の消失点は、実際にはないはずの点である。しかしそれが遠近法的空間を成り立たせている。
在るはずなのに、実際には存在しない「点」。
高松氏はここにおいて、「不在」を発見した。
不在の発想は、その後の彼の作品にとって決定的なものである。

高松氏はこのことを世界を成り立たせる最小の物質の単位、素粒子になぞらえる。量子力学では、素粒子は粒子であるとともに波である。これも在と不在の間の揺らぎだ。
素粒子は在であり、そして不在でもある。それはつねに揺らいでおり時間と切り離せない。


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□ いくつかの言葉


気になったいくつかの言葉があるので整理してみたい。

在 または 存在
これは、変化または時間のこと。変化しないもの、最終的に消滅しないものは「存在」しない。石のように変化しないと思われるものでも何億年もたつと変化する。

不在
これも実は存在と同じ意味ではないか?存在のほうは変化しないことのほうを強調しているのだが、不在は、存在の中にある不在性を強調しているということであろう。


潜在的なエネルギーがギューッと詰め込まれた状態。何もないのではない。その膨大なエネルギーが発現されていないだけ。存在ほど生き生きとした状態ではない。放っておくと何も起きない。

非在
存在にあらず。無のことではないかと思う。

実在
現実の物質で彩られた、我々が日常接しているもの。
・・・しかし本当にそうなのか疑問が残るが。


反実在
どうも、不在が増殖してできたような、この世の向こう側の世界のようなものらしい。決して到達し得ない世界だが、高松氏はそこへの道筋を考えて実行した。
高松氏は以下のように述べる。
「あたらしい純白のキャンバスに、その純白のキャンバスを描写すること。(中略)それは実在と、それ自身の虚像をぴったりと合わせることを意味します。そのとき、物体は実在でありながら同時に虚像であることによって0を掛けられた数式のようにその実在性は否定されます。(中略)僕が意図しているのは、物体をエネルギーだけに変えることによって不在化してしまう、原子力的方法です」(特集・新世代の画家への7つの質問、美術手帳第276号)
 物質的実在(絵の対象物)と非物質的実在(対象物の影)を衝突させて消してしまうこと。これが彼の「影」シリーズであった。
(この解説は、今回の「高松次郎ミステリーズ」の企画者の一人、蔵屋美香氏による)

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□ 高松氏が読んだ本


この展覧会では、高松次郎氏のアトリエの大きさが再現され、片隅に高松氏の書庫にあった本が置いてあった。(もちろん美術館が新しく買い揃えたものだろう)。
高松氏の関心領域を示す興味深いものだと思うので書き留めておいた。


セザンヌの手紙  ポール・セザンヌ
消しゴム  ロブ・グリエ
論理哲学論考   ヴィドゲンシュタイン
老子   福永光司
城  カフカ
意味と無意味  メルロ・ポンティ
抽象絵画-意味と限界  ハインリヒ・リュッツェラー

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□ 芸術は作者の内面の表現ではない。


高松氏のアトリエの大きさが再現された場所の壁に高松氏の言葉が書いてあった。
ぼくはいつも“芸術は"芸術は作者の内面を表現するものでない方がよい”と考えている。これまでの芸術は、自然なり物体なりを作者が見てそれに触発されて感情の表現をされてきた。だが、本当に純粋な絵画というものは、キャンバスがキャンバス自身を表現する、とおいうことではないだろうか。(「自分を無にすること」1980)

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□ 密度

 「高松次郎ミステリーズ」を見て思ったのは、ある強い「密度」だ。この世界は隙間なく何かで埋まっているというような感じだ。不在というものを認めた瞬間に、不在の場所も塞がれてしまい、この世はぎっしりと埋まってしまうことになる。スカスカのところなど少しもない。スカスカと思われていたところも、「不在」で埋め尽くされているからだ。我々の住むこの世界は、この上なく充実している。そして見せかけの表面や一時の感情を超えて、硬く揺るがない、一方で柔軟で変化に富んだ、そのものに目を凝らしたいと思う。

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□ 盟友の人物評

最後に高松次郎氏の死後発刊された、著作を集めた書物「不在への問い」に盟友・赤瀬川源平氏が書いた紹介文が表紙にあったので引用しよう。


長身で
一本気で
明快で
突進力があり
そのために悩んで
その末に在りえない世界の入り口を見つけて
そのわずかな隙間から
身をこじ入れて
行ってしまった
高松次郎      明快なグレー
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