2014年2月2日日曜日

個展レビュー 「ハイデガーの技術論」

先日(2014.1.27-2.1)ギャラリー現 で行なわれた私の個展「ハイデガーの技術論 -自然-身体-社会をつなぐ」を振り返ってみようと思います。

会場
Q:なぜ「技術論」というテーマを選んだのか?
A:
私は中学生のときに神経症になり、電車に乗れなかったことがあります。その時は自分が悪いのだろうと思っていましたが、長じてからは、私の病は、社会との関係であることに気づきました。つまり、私は人間の大量輸送というシステムに、強い違和感を抱いてそれに馴染めなかったということです。
また私たちの身体は自然そのものであるといえますが、私は自然(身体)と社会の間に、またぎ越せないほどの大きな溝を感じるのです。
現代の技術社会に対する根本的な疑問・違和感・居心地の悪さ、不快・・・それらは、私の生来の疑問であり生きていく上でのテーマです。技術について問うことは私の生存の条件ともいえます。



会場


Q:そもそもハイデガーって誰?
A:
20世紀ドイツの哲学者で、「存在と時間」という大ベストセラーを書きました。
フライブルク大学の学長にもなりました。
そのころ、ナチスに積極的に参画しています。世界的な大哲学者となり、学長にもなって、哲学で世界を変えられると勘違いしていたのかも知れません。
戦後、ハイデガーはナチス参画の経歴を恥じて、山荘にこもり著述の生活をしました。その時書いたのが「技術への問い」です。

Q:では、なぜ「ハイデガーの技術論」なのか?
A:ハイデガーの「技術への問い」が、私の疑問にまともに答えようとしているテキストだからです。他にそのような書物は私は知りません。
ハイデガーも、人間の生きる問題と社会性を追求していくうちに、ナチスという歪んだ近代性に加担してしまったのですが、その自分の過ちを真に受け止めて総括したのがこの文章といえます。


Q:なぜこれほど難しいのか?
A:
いままでに無い思想を打ち立てるには、いままでに無い考えを表す用語を作らなければなりません。そのため、ハイデガーは新しい言葉を作っています。確かにそのような見慣れない新語の意味をちゃんと捉えていないと分かりにくいと思います。逆にいえばその用語の意味を捉えていれば、だいぶ分かり易くなると思います。以下にいくつかキーワードを説明します。

キーワード1: Ge-stell (ゲシュテル)
ハイデガーは、「技術への問い」の中で、現代の技術文明の正体をGe-stell (ゲシュテル)と言っています。
ゲシュテルlとは自然や人間から資源や労働を収集し、生産に活用する現代社会特有の目に見えない構造のことです。
川の流れから電力を引っ立て、農地や太陽や空気中の窒素から作物を引っ立て、鉱山から鉱物を引っ立てる。このような「引っ立てる体制」のことをゲシュテルと言います。「徴用性」「総かり立て体制」「巨大-収奪機構」という訳語もあります。
さらにゲシュテルは、人間をかり立てます。生産において労働をかり立て、巧みに消費をかり立てます。
ゲシュテルは目に見えない構造であって、全体を動かす中枢的な何者かがいるわけでもありません。毛細血管のように、世の中の事象の隅々までいきわたり、栄養分を吸い取り、また逆に栄養をいきわたらせています。
私たちはゲシュテルの支配から逃れることはほぼできないのです。

キーワード2: 開蔵(Entbegen)
「現れていない可能性を発揮する」というような意味。非常に意味の広い言葉です。
開蔵の例としては
(1)自然現象
(2)(人間の身体による)技
(3)科学技術
の3つがあります。
ここで(3)の科学技術が、(1)、(2)と同列であるということが非常に重要です。開蔵という概念に、ゲシュテルの支配を相対化する鍵があるとに思います。

キーワード3: モード(Mode)
これは、ハイデガーではなく、私(田島)が考えた言葉です。従来のモード(Mode)という言葉の意味(様式、形式、気分、体制)とは、違う意味で使っています。
ここでいうモードとは、或る社会において、人々の社会的な行動や考え方を律している規範のことです。
たとえば古代ギリシアでは「デルフォイの神託」という巫女のお告げがギリシア社会全体に大きな影響力を持っていました。また日本の封建時代には、主君や家のために自分を犠牲にすることが当たり前という価値の中にいました。
言って見れば、社会観、自然観、美徳、死生観、身体感覚/肉体の使い方までが或るひとつの首尾一貫した価値観の中にあり、それ以外の考えが成立しにくい社会状況、それがモードです。
現代はゲシュテルのモードにいます。ゲシュテルのつくりだす用象(何事も役立てるために駆り立てること)の中にすっぽりと覆われています。 

Q:文章ではなく、なぜ芸術作品として発表するのか?
A:
紙やキャンバスに絵の具でドローイングすることと、紙に文字をつかって書くこととは、媒体を入れ替えただけで、同じことなのです。
今回設定したテーマが非常に範囲の大きなものだったので「思考のドローイング/ペインティング」活動として、一度大きな紙の上に思考を展開し、人々の考えを招き入れ、再構築する必要があったのです。体の現象を行為として表すとしたら紙にハンドペイントすることなのですが、社会をモチーフとするとしたら、言語をつかって考え、それを書き表すしかない。それはドローイングまたはペインティングということができます。
公式には初日と最終日がその「ライブペインティング」の日だったのですが、実は毎夜、展覧会終了後に会場に行き、自分の思考を展開していました。

Q:今回の展覧会の成果は何か?
A:
成果は3つあります。
成果1 :ゲシュテルがなかったときのモードを書き記すことができたこと

私がこだわったのは、ゲシュテルが無かったときのモードを書き表すことです。
人々の行動規範は基本的に土地または血縁に縛られていて、自然と人間の精神の境目があいまいで、キツネにだまされていることを人々が不思議に思わない社会です。また記述された歴史をもっていない社会です。
そういうゲシュテルの無かったころのモードがあることを示すことにより、現代のゲシュテル社会を相対化することができるのです。現在私たちが暮らしている社会のモードは、ゲシュテルが無かった時のモードからゲシュテルが支配する現在のモードに変換した結果であるということです。

成果2: モード変換は、もう一度起こるということを確信したこと

現在のゲシュテルが支配している社会は、あまりにもバランスを欠いているので、変換はもう一度起こるだろうということは以前から何となく思っていましたが今回それを確信しました。
科学技術は、「自然&身体」対「人間&社会」との関係を差し替えました。関係が変質することによって、モード変換は起こるであろうということを確信しました。
それに至るヒントになったのは、ハイデガーの言う「救うもの」という言葉です。
ハイデガーのテキストに、「危険があるところ、救うものもまた育つ」「技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。」という言葉があります。
「救うもの」は、ゲシュテルを排除したり、避けたりすることではなく、ゲシュテルそのものが「救うもの」を用意するという意味です。
そのとき参照されるのが、例の開蔵です。自然現象と人間の技が科学技術と同じものであるということです。
我々は科学によって超ミクロから超マクロまで、そして何百億年の昔までさかのぼってこの自然を見ることができるようになりました。
このことが、人間と自然との関係を新しいものにし、「救うもの」を準備するのです。特に、宇宙から地球を見る経験をした人が増えてきたということも、そのモード変換を後押しするでしょう。

成果3: 芸術の意味をモード変換の前哨として位置づけることができたこと

現在、芸術家が、個々ばらばらにやっている作業は、来るべきモード変換のための準備であると位置づけることができます。
ゲシュテルに支配されていない太古の残余でもあると思うのですが、そのような普遍性を生き残らせる領域として、芸術があります。
あたかも飽和溶液の中から結晶が析出するように、モード変換はどこからともなく起こります。
それは潜在的な可能性であって、もしかしたら何も起こらないまま終わるかもしれませんが、可能性としてはいつまでもあります。そしてそれはゲシュテルの成長とともに「育っている」のです。したがって可能性も常に大きくなっていきます。
芸術家の営みは、そのような変換を常に準備しているのです。

そしてモード変換をなしえたときの姿が、ハイデガーの謎めいた言葉「人間はこの大地に詩人的に住む」ということなのでしょう。

技術は開蔵のひとつのしかたである。



[技術は開蔵のひとつのしかたである。]
 ・自然現象(そして最も身近な自然である身体も) ・人間の身体による技 ・科学技術
*開蔵(Entbegen)とは、「現れていない可能性を開く」というような意味で、ハイデガーは、開蔵の例として自然現象、人間の身体による技、科学技術 の3つを上げている。

これらは原感覚の分化に他ならないのではないか?

我々は、ハイデガーと同じ「太古の目」を持つべきではないか?
 愛人のハンナ・アレントはハイデガーを太古の人と言っていた。



Ge-stellが無かった時のMode(モード) (死生観、社会観、自然観、美徳、身体感覚/肉体の使い方)、 その中にすっぽりと入ってしまうような空間、空気、雲)

記述された歴史がない。オーラルヒストリー  → 書かれた歴史。制度史

キツネにだまされる能力をもっている→ キツネにだまされる能力をもたない

音がない 静か → モーター、電子音、クルマの走行音、下水道の流れる音、エアコンの音・・・

肉体が土地の上にある → 肉体が土地から離れている

先祖が作ったものの上に生きている → 今、またはこれから作るもののうえに生きている

人間関係は固定 個人の自由は少ない → 人間関係は流動的、複雑、多面的(一個人が複数の社会的役割を持つ。
個人の自由(職業選択、結婚等)はある。

我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。


[我々は、自然現象などから用象(役に立つこと)を引き出し、利用して、そして人間そのものもその体系の中に組み込んでしまう目に見えないしくみをこう名づける― Ge-stell と。]

Ge-stellは、あまりにも当たり前に作用しているので、私たちの生活、思考、行動様式を律しているものであると気付くことはない。
Ge-stellは、網のような、血管のようなもの。広がり、からみつき、利用できるものを吸いとり、また栄養を行きわたらせ、人間の生存のモードを変換する。
Ge-stellは人間を利用する。労働力として。消費の単位として。

人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。



[人間は今日、まさに自分自身、すなわち自分の本質には、もはやどこにおいても決して出会えないのである。] 
このことのほうが危険な考えでは?

豊かな生活
伸びる寿命
ゴラクに触れる機会の増加

戦争
原発事故
格差
自然モードを忘れる人間

Ge-stellは、好ましい面と残酷な面を持っており、たびたび残酷な面のみが取り上げられて近代批判や自然回帰に利用される。


1978年、 田島鉄也は神経症になり、電車に乗れなくなる。
  病は社会的なもの
  意識は社会の表象
  身体は社会の皮膚



1945年 沢渡温泉の旅館主の焼き畑の火が燃え広がり温泉街全てを焼失させた。疎開児童にじゃがいもを食べさせたかったという。

Ge-stellの最も恐ろしいことは、人間が自分の本質に出会えないようにすること。すなわち自分が関係性であることを忘れさせ、あたかも精神や意志を独立して持っているかのような見せかけを作り出し用象の体系の中に自らすすんで入り込みそれが世界の全ての姿であると信じて疑わないようにさせること。
ゲシュテルをのさばらせ、ただしたがっているだけで良いのか?
しかし、Ge-stellに盲目的に追従することも、また反抗を試みることも同様に、私たちを不自由にする。どうしたらよいのか?
人間はあまりにもゲシュテルによる挑発にしたがっているので、ゲシュテルが彼に呼びかけている要求であることを認めることができない。

ゲシュテルが支配するところには最高の意味で危険がある。

しかし危険があるところ、救うものもまた育つ。

技術の本質は、救うものの成長をそれ自体のうちに蔵しているにちがいない。






Ge-stell が変化する
Ge-stellの変化はその表象である人間の意識を変える

Ge-stellは何ものに変わるのか?
「救うもの」とは何か?
技術の本質がそれを蔵しているならば
技術の本質とは何か?
それは開蔵(Entbegen)ではないか。



用立て(Ge-stellのこと)の止めがたさと救うものの控えめさとはあたかも天体の運行における惑星の軌道のようにたがいの傍らを擦れ違っていく
ここに偶然隣り合った3つの書評はいずれもGe-stellに関係する言説である。


ゾミア  Ge-stellの支配を逃れ、太古のモードを維持した民が各地に普遍的に居る。

ウォール街の物理学者  Ge-stellそのものの運動を数理モデルで解析しようとする努力

人類が絶滅する6のシナリオ  Ge-stellの暴走によって自然のバランスを崩し、破局するパターンの例示

  これらは開蔵(Entbegen)ではないのか?



技術を徹底的に問いなおすこと、技術と決定的に対決することは、技術と親しいが一方でそれとは全く違うひとつの領域で生じる。
そのような領域が芸術である



現代を支配するものはGe-stell
しかしGe-stellが挑発する開蔵であり
開蔵は自然や人間の肉体の現象(人間の身体による技)でもあることを
思えば、Ge-stellを相対化することは
可能だろう。




現在、そのような相対化は、個々人の固有の時間の中で行なわれているが、
それは集合的無意識の共鳴によって起こる。
もちろん、意図的には起こせない。
Ge-stellが個々人の人間の心とは別に起こった構造であるのと同様に
それも個々人の心とは別に起こる。
しかし、現代の「芸術」という形態では起きないのではないか?
それはModeの変換であり、或る時から急速に起こる。いつかわからない。
我々は太古の目を準備しておき、そのMode変換に
備えておいた方が良い。

人間はこの大地に詩人的に住む

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