2013年12月30日月曜日

個展案内「ハイデガーの技術論」

個展の案内です。

期間 2014年1月27日-2月1日(11:30-19:00 最終日-17:30)
場所 ギャラリー現 
    東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F 03-3561-6869

展覧会名 ハイデガーの技術論  - 自然-身体-社会をつなぐ


田島鉄也がライブペイントをする日:1月27日(月)、2月1日(土)(時間は開廊時間終日)



奇妙なタイトルの展覧会だと思われるでしょう。
美術の展覧会で「ハイデガーの技術論」とは?
しかも芸術論ではなくて技術論・・・


実をいうと、最近私は、もっともらしい造形をすることには限界を感じています。

自然そのものであるはずの私の身体や精神は、現代の高度に発達した社会に追従して生きていて、そこに何か跨ぎ越すことが困難な、乖離を感じています。

一方、幾多の惨劇を繰り返しながらも地球規模で出来上がりつつある技術的な社会の姿には驚嘆せざるを得ない。
歴史的に見てこの100年間に起こった変化は、人口、生産された財の量、物流や人間の移動の点で爆発的な増加を示しており、「何か人類史上かつてない、とてつもないことが始まっている」と思わざるを得ません。
では、それは一体何なのか?






残念ながら、今のところ誰も答えてくれていません。

ハイデガーはまともにそれに答えようとしました。現代社会で興隆している技術の本質を捉え、それが「危険」であることを指摘しました。
しかし、肝心なところではぐらかすように言っています。
例えば、ヘンダーリンの言葉を引用して

「・・・人間はこの大地に詩人的に住む。」などと。



ハイデガーは「この世ならぬ視点」を持てる人です。いわば、まったく別の次元からの視点を私たちの世界に持ち込める人です。彼にはたぶん答えが見えていたのだ。しかし当時では彼のビジョンを人々に分かるように記述する言葉がなかったのだろう。

その哲学者が、以下のようにも言っている。

-技術の本質は、芸術の本質と同じである-と。

そうです。芸術はここにおいて、従来とは全く違う意味を持って来るのかも知れません。

芸術は、科学技術と同じようなインパクトを持っているというのでしょうか?
もちろん我々芸術家は、そのことを信じて疑わない人種なのですが、残念ながら芸術は、科学技術ほどの決定的な社会的インパクトを持っているとは言いがたい。
しかしハイデガーは、まったく違う文明の様態を想定していた。
芸術と技術が等価に扱われる文明を。

さらに私は、自然と文明の関係を重視し、神話もその文脈に組み入れて考えたいと思います。

私は、今回の展覧会では、上記に提示した課題の答えを求めて格闘したいと思います。
今までやってきた手によるアクションペインティングと同じように、壁に紙を貼り、筆やペンで考えたことを書き付けます。ハイデガーのテキストをガイドにしながら。
現代社会の身体的・感覚的理解に挑戦したいと思います。いわば思考のライブペインティングです。


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2013年12月2日月曜日

ジャガイモのために -沢渡大火- 2 ジャガイモを掘りにいってきました。

10月20日アップの内容にあったように、中之条ビエンナーレ2013において、昭和20年の沢渡温泉での大火にまつわる作品をつくりました。
大火の跡の残る蔵の前に、大火にとって重要な品であるジャガイモを植えたのですが、収穫時期が来たので、中之条までジャガイモを掘りに行ってきました。


本日(2013年12月1日)のようす。ジャガイモの葉はすっかりしおれている


ちなみに90日前の10月14日のようす



枯れた葉と茎

掘り出した白いジャガイモ

赤い種類のものも植えてました。

バケツに半分ほど取れました。でも小粒のものが多いです。
 このあたりでは秋植えジャガイモはやっていないし、中之条の園芸店でも「このあたりじゃ無理ですよ」と言われましたが、やらないわけにはいかないのでネット通販で秋植えジャガイモのタネイモを仕入れて植えました。
肥料くらいは最初に入れましたが、あとはろくな手入れもせず、蔵の隣の決して日当たりが良いといえないところでしたが、何とか実をつけてくれました。さすが非常食に使われただけあってジャガイモは凄いですね。

取れたジャガイモの大半は蔵の所有者の方に差し上げました。

そして大火の供養のためのお堂(天狗堂)を再建した旅館「龍鳴館」さんに、少々持って行きました。この旅館では30年来、大火のあった4月16日に天狗堂での講をおこなっています。立ち寄り湯に寄ったあと、女将さんとお茶を飲んでお話させていただきました。(ちなみにここの浴槽はヒノキで、触った感じが良いです)

龍鳴館での天狗堂再興の話はこちら


こちらは作品である石のジャガイモ

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2013年10月20日日曜日

ジャガイモのために -沢渡大火-

先日10月14日まで、群馬県中之条町にて中之条ビエンナーレ2013が開かれていた。それに出品していた私の作品を紹介します。会期が終わってから掲載するのも妙な話だが、展示期間中にはこの文章は書けなかっただろう。なぜなら、作品を通して観客(特に地元の方)とのコニュニケーションがこの作品にとって重要な意味を持ち、時間を追うごとに作品の意味が深まっていったからだ。

中之条町に、沢渡温泉という場所がある。草津の上がり湯として栄え、今や秘湯といった方が良いかもしれないような、風情ある温泉街である。

会場は沢渡温泉街から少し離れたところにある古い蔵である。昭和初期に立てられたそうだ。
作品の設置前の蔵
壁の右上に見える黒こげたような跡は、昭和20年4月16日にこの地に発生した「沢渡大火」の跡である。この蔵の手前に大きな母屋があってそれが焼けたときに炎で煽られて出来たものだ。
大規模な山火事だった。近隣の山々とともに、沢渡の温泉街の全てを焼きつくしてしまった。
沢渡温泉は戦国時代から続く古い温泉であり、江戸時代に立てられた木造の大型の旅館などが多数あったのだが、それらが全て焼失してしまった。

実はこの火災は空襲等ではなく、人災である。
昭和20年4月と言えば戦争末期で、沢渡には約200人の児童が東京から疎開に来ていた。子供たちは大きな旅館に分散して滞在していた。人口約150人の沢渡に約200人の子供が来たので、当然食料が不足していた。
当時、非常食としてジャガイモを栽培することが奨励されていた。疎開児童たちが滞在していた或る旅館の主人が、子供たちにジャガイモを食べさせようと山を焼畑にしてジャガイモを栽培しようとした。しかし不幸なことにその焼畑の火が燃え広がり、沢渡全体を焼いてしまったのである。逃げ遅れて5人の方が亡くなった。何よりも、沢渡温泉全体が灰燼と化してしまったのである。
善意で行なったことにも関わらず、壊滅的な結果となった、誠に痛ましく、やりきれない事件である。

この蔵を会場に選んだ私は、郷土史を調べてそのことを知り、この重い事実を無視して作品はできないと考え、むしろ正面から取り組む決意をした。


ナナメ格子状の枠をつくり、ジャガイモを模した石を配置した


ナナメ格子の枠と石で、蔵の四方を囲った。

周囲に配置したジャガイモに見立てた石。作り物の芽を生やしている。

私は、子供たちが食べられなかったはずのジャガイモを、「食べられない石」で表現した。ジャガイモに見立てた石を蔵の周囲に配置した。その石には「出なかった筈のジャガイモの芽」を取り付けた。これらが「達成できなかった虚の事実」である。
蔵の全周囲にわたるナナメ格子状の構造物は、石の台であると同時に、「戦争」「疎開」「食料不足」などの檻のような心理的な圧迫感も表している。

一方、蔵の手前に本物のジャガイモを植えた。これは本当のジャガイモの芽であり、地中では本物のジャガイモが育っている。11月には収穫できると思う。
沢渡大火の復興は長くかかった。昭和30年代に入って温泉に客が戻ってきて温泉病院も出来、かつての賑わいが戻ってきた。その後の沢渡の復興の芽である。


秋植えジャガイモをの種芋を買ってきて植えた。青々と茂っている。
私は、可能な限り会場に立って、来場客一人ひとりにこの事を話して聞かせた。群馬県や中之条の人は「沢渡大火は学校で習って知っていたが、詳しくは知らなかった」「大火のことは親から聞いて知っていたが、ここにその跡があるとは知らなかった」などと様々な感想をいただくことができた。そして誰もが、私の話を聞くと、「そうか・・・・」と感慨深げに5分ほどジーっと作品を見て帰っていく。人々の心に深く響くものであったようだ。
何よりも、大火の当時を知る人々が訪れると、生々しいお話を聞くことができた。「空から火のついた灰が降ってきた」「家畜が逃げ惑い、道のあちこちで死んでいた」「橋が焼け落ちて、自転車を担いで川を渡って帰った」などなど、つい昨日のことのように話してくれた。

沢渡には縁もゆかりも無い私が、この地域の重い歴史を語ることは、正直言って躊躇がなかったわけではない。しかし、この蔵の所有者の方を始め、沢渡の方々は私の行ないの意義を認めてくれたようで、良く語ってくれた。
おそらく作品がそこにあり、その前で語ったので私の態度が明確だったのだろう。私の意図を超えた作品の力である。

火をつけた旅館の主人の行為は決して擁護できることではない。乾燥した気候で斜面に火をつけるというあまりにも軽率な行動であり、被害は甚大なものだった。
しかし私は少年期に神経症になって電車に乗れなくなった自分と重なるものを感じる。戦争という近代性に曝されたこの男と、電車という近代の乗り物になじめなかった自分は、傍から見れば馬鹿馬鹿しいほど切実なもがき苦しみ方をしていたのではないだろうか。

沢渡という片田舎で起こった、近代の苛烈な介入。そしてそれが自身の失火によって生じたという事実。私は、そのことを自分自身の体験であるかのように感じた。そして神経症になって以来感じていた近代文明との抜き差しならぬ確執に、ある意味で決着をつけたように思う。


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「沢渡温泉史」という立派な本があり、非常に参考になった。この本の著者、唐澤定市先生に会いに行き、さらに詳しい話を伺った。(唐澤先生は元沢渡温泉組合長、その後「中之条町歴史と民俗の博物館」館長を務め、現在同館の顧問)
唐澤先生、並びに、寛容な心で私の行為を認めてくださった沢渡の方々にこの場を借りて謝意を表したいと思います。





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2013年5月27日月曜日

高木仁三郎 ― 2つの自然観をどう克服するか

高木仁三郎氏の「いま自然をどうみるか」を読んだ。


私たち自身が、どこまでいっても自然な生き物の一員である以上、私たちは自然の全体との断ちがたいきずなで結ばれている。どんなに豊富に私たちのまわりを人口の自然で置きかえてみても、そのことによって私たちは心から満ち足りた気分にはならず、日に日に自然が失われていくさまを欺く。
 ある意味では、人間はこの引き裂かれた状況の間を狡猾にわたり歩き、二つの自然観を巧みに使い分けてきたといえる。すなわち、一方で私たちは自然の征服者として、鋭いメスで自然を切りきざみ、その同じ人間が一方であたかもその補償行為として、さながら自然の美を称えるような文化を発達させてきた。
しかし、もはや、しだいに多くの人々が、このような二元論の使いわけが成り立たなくなりつつあることを、感じ始めたのではないだろうか。私たちが直面する深刻な自然と社会の危機は、この二元的に私たちの精神の内部で引き裂かれた自然観を、より新しい観点で統一的に把握しなおすような根源的な作業なしには、克服されないのではないだろうか。
(序章 14ページ) 


私(田島)の問題意識もまさにここにある。
自然から、あらゆる産業の糧を吸い取り、巧みに加工して各種の製品にして社会内で利用するのが、現代文明の特質である。
我々は、頭からつま先まで現代文明にどっぷりと浸かり、それに全面的に依存している。
しかしこのことは、私たちを何か落ち着かない気分にー不安にー陥れる。
古来より、人間は神話によって自分たちの存在の意味を確認してきた。自分たちがどこから来て、何をし、そしてどこに行くのか、それは神話によって語られ、信じられ、そして神話によって自然との関係を堅固なものとしてきた。

現代では、そのような物語は、全く失われている。(あえて言えば、宇宙の始まりはビッグバンがあったという宇宙論、生物は進化を遂げてきたという進化論がその肩代わりをつとめているが、その程度だ。)

我々は、普段は文明に囲まれた生活をし、ときどき自然にふれて何かの欠落を埋めて元の文明に帰っていく。
しかしながら、その間をいくら頻繁に往復しようとも、その決定的な乖離を埋めることはできない。

同様のことは、私たちの身体的経験においても起こっている。いまや「見る」ということは身体的経験とはいえなくなっている。見るということは「目の前で起こっていることに立ち会っている」こととイコールではない。言うまでもなくインターネットの発達、デジタル映像や防犯カメラが人間社会のいたるところに入り込み、また3D映像など、架空の経験をさせるものも一般的になっている。

自分と同一の肉体的な身体と、ネットやテクノロジーで拡大されたバーチャルな経験の間で、ある意味居心地の悪さを感じている人も少なくあるまい。


高木氏は2つに引き裂かれた自然観について、その解答を与えていない。
古代から現在までの人間の自然観の変遷については丁寧にたどってあるが、そこから先は、「生活や実践」というものに委ねており、結論を出すことを避けている。あえてそうしたのだろうか?

問題はつまるところ、私たちがどう生き、どう運動するかということになってくる。自然観の問題を一応それとして考えてみたいという当初の問題意識も、結局、行きつくところに行きついてしまう。そこから先はあらためて議論を立て直したほうがよさそうである。
(終章260ページ)

この本の初版は1985年。インターネットの普及はさらに10年後であった。
高木氏の問題提起は正鵠を得ているが、今見ると時代遅れの観が否めない。
現実に原発事故が起こった今日、「どう生き、どう運動するか」「議論を立て直す」などといっていられる状況だろうか?


唯一の方法は、好むと好まざるとにかかわらず、現代文明に果敢に挑戦していく以外に無いのではないだろうか。現代文明を、自分の身体的経験そのものとして生きること、それ以外に無いのではないだろうか?

自分が現代文明そのものとなったときに、自然がどのように見えるのか。私はそのことに興味がある。


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2013年3月30日土曜日

コーヒーによる絵画

床に置いた紙にコーヒーを垂らし、紙を傾けて流した。紙の膨張によるたわみにコーヒーが溜まり、それが乾燥する。その途中でまた紙を傾けて流す。紙の上の自然現象。
なぜコーヒーなのか?
食べるものだからだ。奇妙な言い方だが、私にとって、絵の具という「絵を描く道具」を使うこと自体に私の意図と違う意味がついてしまうからである。







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2013年3月10日日曜日

Youtubeに個展のアクションの動画をアップしました

Asphalt painting with meat
Painting with asphalt,ground pork,painkillers,gargle and glue. アスファルト、豚の挽肉、鎮痛剤、うがい薬、糊をつかったペインティング。 Gallery Gen(Tokyo) Jan.2013 parformed by Tetsuya Tajima.


先日行われた、私の個展でのアクションを撮ったビデオをYoutubeにアップしました。

ビデオでは、4倍の速度で再生されるように編集しました。
そのため、アスファルトと糊を混ぜたものが落下する様子が良くわかります。


ビデオにおいては、実際の行為と見るのとはまた違った価値を見出すことができるでしょう。

グチャグチャ感が良く出ているし、生きているもののように見えます。。。。

2013年3月3日日曜日

高橋悠治 vs 茂木健一郎  対談記録


平田星司さんに教えられてICCのサイトに出ている高橋悠治と茂木健一郎の対談を聞いた。7年前に行われた対談だが非常に面白かった。
http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20051217

2005年12月に行われた、当時の売れっ子脳科学者、茂木健一郎が高橋悠治に言い負かされている(かのように見える)という興味深い対談である。
すれ違いのように見える対談だが、しかし高橋、茂木の両者とも非常に興味深いことを述べていて、内容を良く聞くと非常に面白い。
対談を途中まで文字にしている人がいた。http://d.hatena.ne.jp/manuka/20051224/p1
文字で追うと動画で話しを聴くよりも内容が頭に入ってくる。私はその人の文にさらに加筆し、ところどころコメントを付け加えた。
8年前の対談であるので、茂木・高橋とも何をいまさらという感じがあるだろうが、私としても考えるところがあったので以下の長い文章を書いた。
以下、ICCのサイトの動画からの、対談のほぼ全部の聞き取り記録である。


この対談はICCの関係者であり、茂木と親しい音楽家・渋谷慶一郎によってアレンジされた。
ICCで高橋の演奏会が企画され、おそらくその過程で渋谷が高橋に「茂木健一郎との対談はいかがでしょう」と申し入れ、高橋が応じたものと思われる。いってみれば茂木は高橋の引き立て役としてこの対談に参加している。さて高橋としてはクオリア論で知られる売れっ子の脳科学者の基本的な思想に疑問を持っており、最初から茂木を論破(というか諭すというか)するつもりで対談に臨んだと思われる。
茂木は普通の意味での対談をしようと考えていた。茂木は高橋からできるだけ良い話を引き出し、クオリア論を交えて対談を展開するつもりだったに違いない。しかし脳科学で人間を理解しようとする態度そのものを最初から問題視している高橋は、始めから茂木に質問攻撃を浴びせる。
両者の考えには決定的な違いがある。茂木は人間究明のアプローチとして「クオリアの先にある運動体(人間の意識活動全体のこと)のベールを剥がしたい」という。一方、高橋は人間を脳を基盤として考えること自体が「単純化」であり「支配の体系」であると批判する。クオリアも「量」に対して「質」を出してきただけで、その体系から出ていないという。
高橋は、支配の体系に拠らず、ものごとを在るがままに受けとめ変化に柔軟に対応するような「新しい論理」を提唱しようとしたが、十分に語られないまま対談は終了した。

「他者の痛みが感じられるか」というテーマは高橋の発案である。禅の公案のようなこの問いに、茂木が答えられるはずが無いことがわかった上で、高橋は自分の論を展開しようと考えていたのだろう。しかし対談はこのテーマとは関係のない方向に進む。他者の痛みどころか、自分の痛みがわかるかどうかというところで既に両者の違いが鮮明になってしまったからだ。

この対談に先立って高橋による3曲の音楽演奏が行われた。その演奏は、楽器を奏でるのではなくPCを用いて予めサンプリングされた音をリミックスする形で行われた。この対談はその後始まった。

以下音声の聞き取りは田島の責任によるものです。
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高橋悠治+茂木健一郎:公開トーク「他者の痛みを感じられるか」
Possible Futures: Japanese postwar art and technology
ATAK@ICC
アート&テクノロジーの過去と未来

日時: 2005年12月17日(土)19時 | Date: December 17 (Sat.), 2005 19:00

会場: ICC 5F ロビー 



以下略称: M=茂木 、T=高橋  
(対談の冒頭部分は関係ない話なので省略する)

M(茂木) この「他者の痛みがわかるのか」というのは、高橋さんが出されたテーマなんですか?

T(高橋) うんまあそうですね テーマっていうかなんかタイトルがなきゃいけないからそれにしておけばなにか反応があるかもしれないし。

M 実は初対面なんで、初めてで、しかも控え室でも会ってなくて、未知の惑星からの動物どおしが会ってるっていう感じなんですけど…。もうちょっとその他者の痛みっていうのを…

T あ、他者の痛みですか。 例えばね、他人の歯の痛みは感じられるかっていうようなことですよ。それはどうなんですか?

M 今日は、ICCたち高橋さんたちに今まで言ったことは言うまいと思っているので、普通の話はしないようにと思ってるんですが、僕はその題をきいたときに、そもそも自分の痛みでさえわかるのかということを考えたんですね。

T じゃあ 「わかる」というのはどういうことなんですか?

M まさにそうなんですよねえ、たとえば高橋さんの先ほどのピースを三つ聴いたときに、今までに感じたことがないような何かを感じているんですよね、私は。それはわからないんですよ、何なのか。
僕が産まれて最初に痛みを感じたのはいつだったか覚えてないんですけども、ひょっとしたら胎内にいたときから痛みを感じてたかもしれないんですが、痛みというのを最初に経験したときに立ち現れた何かと同じものがきっとさっき音楽三つ聴かしていただいて立ち現れていると思うんですけども、この痛みはわかるという地点の前に居たいなと思っているんですよ、僕は。ですから、わかったと思ってても実はその前の地点に戻ると、わからないとも言えるというふうにするとですね、ふつうの意味での「他者の痛みはわかるのか」っていう問い自体がまた違った見え方をしてくると思うんですよね。

(田島:この対談の直前に行われた高橋の音楽を聴いた経験から、茂木は経験を言葉にすること以前のことを話し出す。高橋の3曲は、ささやくような声のサンプリングを効果的に使い、シンセサイザーが鼓動のように聞こえ、耳を通して理知的に聴くのではなく体内から響くような音響の曲であった。茂木は直前まで聴いていた曲の雰囲気に呑まれているような感じである。)

T ええ じゃあ 「わかる」っていうことの反対は「わからない」なんですか?

(田島:一方高橋は直前まで曲を「演奏」していたので、完全に演者のモードになっている。いわば自分のホームグラウンドに、科学者・茂木が入ってそれを「解釈」しはじめたので、茂木のいうことをわずらわしく感じているようである。)

M いや、そういうことではないと思います。…ソクラテスとしゃべってるような… というのはですね、声を効果的に使われた最初の二つのピースを聴いてて、この感覚は今までにないものだなと思ったんですが、名指しはできないけれども、はっきりとつかんではいるんですよね「この」というかたちでは。そういう意味でいうと、存在しないとか、あるいは見えないというものではないんですけれども、
ふつうに世間にいう「わかる」の前の段階で。

T 自分が感じていることが確かだっていうことはどうやってわかるんですか? それを疑わないっていうのはなぜなんですか? 自分が感じたっていうことはもう記憶でしかないわけでしょ? 「感じた」っていうふうに言った場合は もう感じてないわけでしょ? だから記憶なわけですよね。 それで じゃあその記憶がわかるっていうのはどういうことなんですか? どうして だから「わかる」と言えるかという意味ですけどね。

(田島:高橋は、諭すように質問する。実はこれが高橋の罠である。)

M 難問ですね。今日、記憶のことについて昼間しゃべってて…記憶と思い出はどう違うかっていう質問をされて…  たとえば高橋さんのPCにも渋谷さんのPCにもメモリーはあるわけですけれども、それと人間が何か思い出すっていうときの現象学的な何かが立ち現れるっていうのは違うわけで、そういう意味で言うと。

T 違うっていうのはどう違うんですか?

M はい、今、言おうとしております。今たとえば、何かを感じてるっていうものがあって、それがある時間がたつと別のかたちになるんだけども、しかしその同一性は保っているように我々はふつう思っているわけでして、さきほどお聴きした音楽の時間の流れというのは、今私の中では圧縮されてひとつの印象になっているわけです。
それをふつう、実際に聴いていたときのものと等価であるというふうに了解することで我々日常生活の中で生きてるわけですよね。 ですから、その時の縮小写像っていうか、過去にまるめ込まれたものが、どうして、そのリアルなその時々の時間の流れの中で立ち現れているのと同じだと思えるのかというのは、それこそまさに最初はそう思わなかったのかもしれないけれども、産まれたときは。 
でもそうようにしていくと、この世の中で生きていく上で、なにがしかの機能が果たされるということで、我々はそういう習慣に基づいているだけで、その前の地点に立ち返れば、それさえもわからないですね。ご質問の趣旨はそういうふうに伺ったんですが。

(田島:言葉にならない経験をこのように説明できるということは茂木は相当頭の良い人だなと思う。クオリアを提唱する一人として、心的現象の記述に慣れているのだろうか。しかし、そもそも当の質問は高橋の仕掛けた罠である。)

T えーっと いちばん疑問なのはね どうしてこういう質問に答えられるかっていうことが非常に不思議なんですね  (場内笑い)

M はあ…。 と申しますと?

T つまり 質問があれば答えがあるというふうに 思われるわけですか?  (場内笑い)

M いや会話してるだけですよね。

T そうでしょうかね。 うーん つまりね、「我々がこのように記憶し」っていうふうにおっしゃいますけども 「我々」っていうふうにどうして言えるのかっていうことなんですよ。 それがまあこのテーマでもあるんだけど それは「わたし」にすぎないわけでしょ? その「我々」とおっしゃっているのはね。 だけど 「わたし」っていう意識はないわけですよ。   
「わたし」っていう意識を持つためには  意識が一回自分に反転する、 そういうふうにするわけでしょ?  それでそれは また別な意識なわけですからね。 だから何かを感じているっていうときに「わたし」があるかどうかっていうことは ちょっと疑問なんじゃないですか?  
それでそれを「我々」というふうに言ってしまうっていうのは ある種の習慣でしょ?  
それは学者の言い方かもしれないけど それでどうしてそういうふうに飛躍できるのかっていうことを伺いたいんですね。

(田島:高橋は、感じているときは、「わたし」というものがないことを知っている。ただ経験があるだけだ。)

M それは…なんていうかな、そこらへんはね、何ていうか…突っ込んでいくとヤバイところにいくと思うんですけど。僕の立場からしてですよ、高橋さんがそういうことを言われてるときに、もうすでに何らかの原始的な信仰の体系が忍び込んでいると思うので。 今のはご自身に向けられた言葉でもあるわけですよね、そういうことを言われるという時には。

T そうですね。

M じゃあ高橋さんは日常の中で、「我々は」という言い方をすることはないんですか?一切

T う…んまあ 習慣上しかありませんね。 で、「我々」っていう意識はあんまりないですね。

M 私も習慣上申し上げているだけで。

T 何なんでしょうね。

M 何なんでしょうねえ…。  高橋さんの 1970年代コレクションを拝読して いろいろ感じるところがあるのですが…いろんな偶像的なものを解体するっていうことは私は非常に共感するんですね。ある意味では渋谷さんを含め、高橋さんが書かれているように、西洋がつくった近代の音楽という制度という神話を解体する、その中での様々な偶像を解体するっていう運動自体はすごく共感できるし納得がいくんですけども。その時にそういう解体の運動の中にでさえ偶像的なものっていうか神話的なものが原理上入り込まざるを得ない、と考えるんですけど。 つまりやっかいな問題があって悪魔払いしきれないっていうか、どこかに神話的な構造が残ってしまうのが人間というものであって、ですから  僕が逆に高橋さんにお伺いしたいのは、水牛楽団(茂木氏いうところの水牛団)の運動を含めてやられてきて、今どのように思われてます?そのあたりの問題は。

(田島:茂木は察しの良い人で、すでに高橋の言うことを察知している。近代の美学を批判しそれとは関係ない形でものをつくったとしても、その態度そのものの中に、ある種の判断(美的な判断)が加わってしまうであろう。その判断基準は近代によって育まれたものではないのか、それが茂木の主張である。そのことは後に何度も繰り返される。)

T その、やってきたことについてですか?

M 今、私の物言いに対してある種の神話解体的なことを言われたわけですよね。

T あのね神話解体っていうか、だからね、神話解体っていうふうにいうと ヨーロッパの論理がある それを解体していかなきゃならないっていうふうになるんじゃないですか? そうですか? 

M そのようなことを高橋さんは書かれているわけですよね、かつて

T うん それは本に書いてあるらしいですね (場内笑い)

M そういう言い方自体をされないということですか?

T 今思ってるのは、だから、今までの話はともかくね、ヨーロッパの音楽ね、500年間続いてたわけですよ。 それはある論理に基づいていて、それは音楽だけじゃなくて、いわゆる近代といわれる論理と同じだと思うんですよね。  
それの創造性っていうのは20世紀の初めに尽きてしまった、というふうに見えるんですね。それはたとえばドビュッシーとか ストラヴィンスキーとか シェーンベルクとか 誰をとってもいいですけども ヨーロッパ以外のものにひかれていく そういうことがあったわけですね。  
中ではもう使い果たされたという感覚があって、 そして そうするとそれは解体っていうような崩壊っていうようなそういうことになるけれども それで新しいものがでてくるとはあんまり思えなかったんですね。 じゃあ、内部でとりこんだすべてが使い果たされたから 外部からまたなにかとりこんでくるっていうのは同じ視線なわけですからね。 
ヨーロッパの近代文明がどういうふうにできあがってきたかということを考えると、まあいろんなことがいえるわけでしょうけども。 
音楽でいうと アフリカとかアジアとか特に中国とかそういうとことの関係があるわけですよね。  それからケルト文化とか そういうものを取り込んできて ある統一体みたいなものができる。 それでそこの過程がね 「単純化」というふうにいえると思うんですよ。 それで 例えば たくさんの音階があった それをひとつに整理してそれの変化だと考える そういうようなことですね。 
だから一番単純な要素に還元して それをいろいろ組み合わせて全体を作っていく そういうような傾向があると思うんですけども そういう論理でやっている限りね どういうものを取り込んできても ヨーロッパ以外の世界にたいして「搾取」している関係というのは変わらないと思うんですよ。 それで、それは新しい道にはならない。 要するにヨーロッパを生き延びさせているということでね。 それで それにたいしてじゃあ別な論理があるかっていうと それは非常に今わからないところなわけでしょ?

(田島:いよいよ高橋の真意が語られ始める。音楽を音階の変化だとする西洋音楽を「単純化」の図式とし、それにアジア、アフリカの音楽が取り込まれることを「搾取」と言っている。)

T もうひとつは 今何か言おうとするときにね エレクトロニクスとかコンピュータの言葉でしゃべってしまう というような傾向があるんですね。  それで だからそういうふうにすると つまりその形態にとらわれてものを見たりしている場合は どうやってそこから出られるのかっていうことが 次の問題になるんじゃないかと。 それで例えばですね、 意識というものがある、それで 意識以外に人間がね 触れているものがあるわけでしょ? その人間の内側なり外側なりにね それを意識するというのはほんの一部だし、 だから まあエレクトロニクスの用語でいうとフィルターっていうことになりますね。 それで意識のほんの一部が まあ器官的にはたとえば脳っていうようなことになるのかな?そういうふうに単純化するということは 逆にみるとね、「支配の体系」だと思うんですよ  それはある最小限のものを 確実性を囲い込んで それを所有する それでもって 攻撃的になってくる。  それは自分にも 働くし それから外部にも同じように 働くと思うんですけどね。 
それで まあ今までやってきたことがこれからどうなるのかっていうことは まあ 興味があるんですけどね。

(田島:これは茂木に対する極めて重要な批判である。人間を脳によって理解しようとする脳科学を「支配の体系」と言っている。)

T たとえば AかAでないか どちらかであるというのは まあ論理ですか それはたとえば味方か敵かっていう論理でしょ?
それでアリストテレスはアレクサンドロスを教えていたわけだから それでそういう論理というのは戦争の論理だと思うんですけどね。 それから 自然を征服するとか そういうことでもありうるわけでしょ? それからある土地を囲いこんで そこで何かものを作って売るとかそういうことでもあるわけでしょ? だからまあ非常に全体がある結びつき方をしている。 それで たとえばハイアラーキーというふうなものを考えた場合に上下関係になってくような気がするんですけどね。 小さい要素があって それをこう組み上げて全体をつくっていく それはある種の階級の論理でしょ。 それで いったいそういうふうにならなければならないのかということがね ちょっと疑問なんですよ。   
まったく水平的な結びつきで いろいろな違うネットワークが重なっていると そういうことで ある全体が考えられないのかっていうようなことですね。

(田島:ここにおいて、近代ではない「水平的な結びつきで、違うネットワークを重ねて或る全体をつくる」という新しい論理の端緒が語られる。高橋はこのことをもっと語りたかったのだろうが、相手が茂木では不足だったようだ。しかし高橋の言葉に触発されたのか、茂木は決意したように語り始める。)

M 全く同意するんです、だけど、今日はせっかくの機会なので、もっとも僕が思うところの「厳しい問題」を、ちょっと…どうせならぶち上げたいんですね。 僕は、高橋さんの音楽は素晴らしいと思います。さっきの3つは掛け値無しに。この前のゴールドベルグも良かったです。(注・田島:高橋が演奏したバッハのゴールドベルク変奏曲のこと)。ところが高橋さんのような物言いをされたときにやっかいな問題があって、つまり、美しいって感じる人間の心性そのものの態度はファシズムに通じるとこはあるんですよ、で、そういうかたちで水平的な関係を世界に展開したいとか、あるいはもっとですね、さっき学者的と私のことをおっしゃいましたけど、別に僕は自分のこと学者だと思ってないですけどとりあえず私が学者だとして、あるいは例えば評論家だとすると、評論家っていうのはある種特権的なヒエラルキーを作りたがる人種ですね、それにたいして、制作者側の、私、偶有的って言い方しますけど、何が起こるかわかんないようなすべてのところに自律的なダイナミクスがあって、それが集まっていろんなものを作っていくっていうようなことに物凄く共感して制作しているアーティストがいると思います。メディアアートの人にはそういう人多いと思います。ICC にもそういう人がいっぱいいると思います。 ところがですね、そういうふうにして出来た作品が、そのような理屈というかフィロソフィを抜きにしてみたときに、確かにモノカルチャー的ではあるかもしれないけれどもヨーロッパの音楽の伝統の中で作られてきた高橋さんが弾かれて高橋さん自身は失敗作と言われているバッハみたいなものに比べて、普通な意味でナイーブな意味で受ける主観的印象の質においてどっちが上かというと、理屈はあるんだけどなんか面白くないなあっていうのも随分あるんですよ。 その時にですね、バッハの ゴルドベルグを聴いて美しいと感じる心性そのものが、もし理屈を突き詰めればファシズム的な心性だとすると…だって美しいものと美しくないものを区別することは差別の構造といえるわけですからね…科学の文脈で美を語るときには必ず女性美が引き出されるんですけど女性の顔を美しい美しくないと言うこと自体がファシズム的ですからねそういう意味でいうと。 ですからそこを突き詰めると従来の伝統的なアートというものが因って立ってきたものが崩壊してそこでアートを作り続けていると言っている人たちが何をやっているのかわかんなくなってくるんですよ。 そこでモラルハザードが生じるっていうか、適当にインタラクティブなものを作っておけば、それってアートでしょっていうような言い逃れができてしまうんですね。 で、もしそうじゃなくて、そういう制作の現場においてもなお、何らかの審美的な意識があるんだとすると、それを高橋さんが今否定的に言われたヨーロッパ中心主義という美のファシズムみたいなものとどう区別するのかというのが、論理的な…まあ論理って戦争の道具かもしれないんだけど…わからないんですよね。 で、せひ教えていただきたいんです。

(田島 :茂木は、高橋が「搾取」「支配の体系」として批判するヨーロッパの体系を「ファシズム的」と言い換えた。しかしその「ファシズム的」な「ヨーロッパ中心主義的」の美のほうが、それによらないで作っている制作者のものよりも質が高い。そして制作者も審美的な判定をしているわけだから、そのような美を否定するということはどういうことなのか、というのが茂木の質問である。)

T 美しいか美しくないかっていうふうに感じるのはね 音楽つくる人の感じ方じゃないんですね   面白いか面白くないかなんですよ。  それで それは 美しいっていうのはある基準を必要とするわけでしょ? だけど 面白い面白くないかっていうのは それはね 基準はあるかもしれない あるかもしれないけど そういうことを定義してはいけないものなんですよ。
それは こういうものは面白い、 何故ならっていうふうにいくでしょ。 そうするとそれにとらわれるわけですからね。 だからそうじゃなくて こういうものがある。 これは面白い そこからどういう違うものができるかっていうことでやっていくわけですからね。 それは、もう 面白いと思ってそれを自分でやる瞬間にもう違ってくるわけですよ。 で どういうふうに違ってくるかっていうことで 伝統なりそういうものがあったわけでしょ。

(田島:高橋は、美の基準は無いとし、ある形に固執することなく柔軟に変化していくことに価値があると言っている。荘子の相対主義的価値観を彷彿とさせる。一方茂木は、プラトンの美のイデアのように、ある美学的な基準がある筈だと言っているように思える。)

M 面白いか面白くないかでやるっていうのは科学も同じでして、ただ、その後で何らかのジャッジメントがある訳なんですよ。 面白いといって作った小学生の科学理論とアインシュタインの相対性理論を等価におくことはできない…ですね、やはりそれは。極端なことを言えばアインシュタインの相対性理論は「良い」と、小学生が紙の上に書き付けた…同じように面白いと感じているですけどね…科学理論は「悪い」と、ジャジすること自体が…美しい美しくないという言葉は使わなくて良いんですけど…ファシズムとおっしゃられるのですか?

T いや そういうことは言いませんよ。

M そういうことはどうお考えですか、事実上ジャッジメントということはあるわけですよね。

T 面白いか面白くないかは判断ですよねえ、とも言えるわけでしょ? でもそれはきっかけにすぎないわけだから それで ひとりがね 自分が面白いというだけでは それはね 何かをつくれないんですよ。 
それは音楽っていうのは誰か聴かなきゃ成立しないようなものでしょ。だからひとりだけの音楽っていうのはないんですね。 それは言葉も同じだと思うけど 言葉っていうのは生まれつきあるものではないでしょ。 それで まあ子供のころから言葉を覚えるということは  言葉っていうのは要するに 二人以上の人間がいて成立するものでしょ。 それで言葉で何かを考えたり感じたり表現したりするっていうことは 要するに ある種の複数の人間がいないとそもそも成り立たないことだと思うんですよ。  じゃあそこで どうして個人ということに重きを置くのかっていうのは 或る意図があるってことでしょ? 

M いえ、私は特に(個人ということに重きを)置いてないんですけど…置いているように聞こえましたか?

T いやいや 茂木さんが置いているか置いていないかではなくてね、なぜ個人主義というようなものが発達したかっていうようなことですよ。 個人主義といってもいろんな個人主義があるわけで ヨーロッパのはひとつのバラエティにすぎないわけだけど。

(田島:高橋は、「面白いかどうか」ということも判断なのだが、それは相対的なものであって、自分で判断するわけではないという。音楽も聴いている人と一緒に作るのであるという。確かに私(田島)も作る人間として、自分の作品を見た人に与える影響や印象は作品をつくる上で必要不可欠な要素だと思う。作品は決して一人で作っているわけでない。一方茂木は、(個人に重きを置いていないとはいうものの)アーティスト自身が作りながらそこで判定を下している筈で、そこに何らかの基準があるに違いないと主張している。そこで高橋は、自律した個人が判定を下すこと(個人主義)に対し疑問を呈する。)

M それは、ひとつの考え方としては資本主義における取引関係において、借金したら返せってことじゃないですか。 ちょうど今、脳科学では近代的自我というのが本当にあるのかというのが問題になっているですね。多重人格までいかなくても、もっと自我というのは緩いものであろうっている話をするんですね。文化人類学とかの方とか。 そういうとき何が困るかっていうと近代的な市場での取引関係の整合性なんですね。つまり、Aっていう人格のときに借金したんだけど今B だから返せないとか、そういう言い方を許容できないっていう… 

T だから あらゆる科学だろうと哲学だろうと結局取引関係にいくわけじゃないですか。 だから取引関係に基づいて科学も経済も すべてができている。 これこそ問題じゃないですか?

M まったく同意です。ですからJ.S. バッハという人がこれだけの曲を作ったと、だからそれについて彼に、英語だとブラウニーポインツというちょっとポイントをあげようね、っていうクレジットのシステムで…なされてきたわけなんですね、我々の社会生活っていうのは。それは問題だと、私も感じます… デジタル資本主義で1と61万入れ違えると一方は300億損して、片方は20億儲けるというような構造にもつながっているという…あそこまでいうと私もカリカチュアだと感じるんですけど。現代における成果主義とかをそんなにおかしいと感じないような思い込みをさせられていることは事実だと思いますけど。

T でもそのね、すべてがビジネスに基づいているということがますますはっきりしてきたというのは ひとつの文明の衰えていく過程で露わになってきた、そういう事実…つまり 文明が盛んなときは別に取引だろうがなんだろうが そういうことは言わなかったし それで成り立ってたわけですよ。 それで 今すべてがビジネスだというようなことになったときに そこから何か生まれてくるということはこれ以上ない。儲かる人は儲かるし、力のある人はもっと力があるし そういうようなことでしかないわけでしょ。 そうすると そういうことをいくら批判したって始まらないわけだから。だからじゃ、どこに違うものがあるかということになりますね。

(田島:高橋は、現代の社会を覆っている取引関係は、文明が衰えていく過程であるとし、そうではない、「違うもの」を設定しようとしている。)

M だから例えば、科学者でいうとライアル・ワトソンみたいな人がインドネシアの海行って、夜、蛍の光…蛍じゃないやイカが発光しててそれに囲まれたときに何かを掴むっていう…ああいうものはそういものを乗り越える何らかのきっかけになるとは思いますけど…だからあの…うまく言えないんですけど…なんていうのかな…ポストモダニズムの言い方の中にはそういうワトソンが出会ったイカの光みたいなものの気配よりもむしろ資本主義的な取引関係の精緻化*した記号体系みたいなものの気配が色濃くでていたような気がする、むしろ近代的自我の限界を言いつのってたあの流れっていうのは …だからどうも違うような気がするんですよね。

(*音声では分からないが「精緻化」なのか、「聖地化」なのかで意味がずいぶん異なるが、文脈からいうと「精緻化」の意味と思われる)
(田島:茂木は、ライアル・ワトソンなどのいわゆるニューエイジ・サイエンスは近代的自我の限界を言いつつもそこから出ていないという。高橋も次の発言でそれには同意する。)

T うんまあそういう感じはありますね。 それでやっぱりそれは、イカの光がね、燐光が美しいとかそういう感じにいくわけでしょ。 だから美しいということに戻っていく。 しかし美しいってことだってさっきおっしゃったように差別の感覚がどっかにある。 そういう論理に基づいている。 そうすると これじゃあヨーロッパから出られないというようなことになるわけでしょ まあ別にでなくてもいいのかもしれないけれど。 
そうするとじゃあ 違う論理はどこにあるのかっていうことですよ。 
それで違う論理に基づいて たとえば今までの科学なり芸術なり日常生活なんかをどういうふうに変えられるのか。 それも一人が変えたってしょうがないわけでしょ? それで まあなにかこう見せてね。 こういうふうにっていうような。それで納得する人がいなければ 何にもなんないわけですから。  そういうものが あるコミュニティの中にあるというような時代じゃないわけでしょ? そうすると いろいろなdisciplineが違って、それから場所も違って、それでそういう中に何か芽のようなものがある。 それを ヨーロッパ的な価値に還元しないで、どうやってその芽を伸ばしていけるかということだと思うんですけどね。

(田島:高橋は再び「違う論理」による社会改革の話をする。茂木が東洋哲学に詳しければさらに話を発展できただろうが、しかし茂木は次の発言でクオリアになぞらえて話しを継いでいこうとする。)

M 精神分析において名前をつけるってことが かえって治療の妨げになるってことがあるらしいんですね… 乖離性同一性障害ってDSMってアメリカ人がつくるの好きなんだけど、何でもそういうかたちで記号化してカタログ化して…IT化しやすいですね。そうすると、でも、患者が乖離性同一性障害だって確定診断できるまで5年かかって…何のためにやっているのかわかんなくって… 名前なんてつけないでただ普通に接しているほうが「治る」っていうんですよ。いま精緻化して、カタログ化して、何でも名前つけて、分類して、ITに載せて、プロファイリングして、お前はこういうやつだとプロファイリング見せられるわけですよ。…その動きにどう抗するかっていうことには僕も重大な関心があって、だからクオリアなんていう概念を… 今日高橋さんとお話しして今30分くらいかな… 僕は最初クオリアと言ったときはそういうつもりだったんですあの、ちょっと言葉は悪いですけどアルカイダみたいな気持ちだったんですから。そういう機能的なことで割り切っていくという…機能というものをいうためには或るものの同一性を確定しなければいけませんからね。ゆるゆると軟体動物のようにつながっているものは機能っていうものではないわけで、ですから、高橋さんが批判してるようなオーケストラっていう制度にしたって我々いまだに当たり前だと思っちゃって別に疑問も持たないんだけれども  オーケストラ的なものも精緻化されてネットの上にあるわけでありまして、それに対してどうアンチテーゼとるかっていうことは、僕は97年に「脳とクオリア」っていうのを書いたときに、まさにそれだったんですけどもね。
だけど…うん難しいね。なかなか覚悟の要ることでして ほんとに根本に遡って、それこそ普通の意味での左翼っぽい人たちが言ってるようなこととまた違った意味で、認識論とか存在論の根幹に戻っていかないと扱えないやっかいな問題だと思うんですが、そこはもう高橋さんとの(話しを通じて)伝わってくる何かっていうのは、僕は共感できるものですけどね。そこは。

(田島:高橋のいう「ヨーロッパ的価値観」とは「ちがう論理」によって科学や芸術や日常生活をどう変えるか、という提唱に対し、茂木は、自分は「クオリア」という概念によってそれに抵抗していると述べ、高橋の提唱に共感を示す。しかし、高橋は次の発言でクオリアを批判する。)

T たとえばね自転車に乗るときにね、というよりもっといい例がね、ムカデが自分の脚の働きを意識すると歩けなくなるっていう話あるでしょ。 それで 意識しないでまあ人間だって歩いてるわけですよね。それで、そうやって歩けるということは、意識の役割でないっていうわけじゃないんですよね。  だけどそれは働いている。 だけど意識しなくて歩けるっていうことは、それはね習慣って言っちゃうと 非常につまんないことになるんですけど、その、からだっていうものがね、たくさんの器官でできていて、それがこう働いている。それを平等というのもおかしいんだけど、こう分散させているということが歩いているっていうことであり、考えている、感じているもそうだと思うんですね。  
だけど 今まで量的な、こう測ったりなんかできるものを扱ってきたからといって、じゃあそういうもんじゃない質感だクオリアだっていうふうにいったときにね、じゃあこの感じている何とも言えない…というようなことになると、まあ神秘主義にいくか、オカルトにいくか、あるいはその美というようなものに跪(ひざまず)くというようなことになるか、まあ、あまりそこは先がないと思ってるんですよ。  それは要するに量に対して質を出してきたっていうだけの話だから、やっぱりひとつの元の手のひらの中にいるだけだ、という感じですね。
 
(田島:茂木のクオリアに対する手厳しい批判である。高橋は、量に対して質を出してきただけで、クオリアは「ヨーロッパ的価値観」から出られない、という。)

M いや、その言われ方よくわかるんですが、でも、そういうこととちょっと違ったことを考えているんですね。つまり質量っていうのは相対性理論で初めて起源がわかったわけですから、その静止質量が運動エネルギーと相互変換できることを見つけて、それでまあ原爆もできちゃったんですけど、今まさに高橋さんがおっしゃった、クオリアっていうものをただエポケーして見てるだけだとそれはまた神話的な役割をしてしまうんですけど、その背後にある運動体をみたいっていうのが一貫した…つまりそういうふうにしないと… つまり脱神話化の究極かもしれません。今、私を含めたクオリアっていうものに興味をもっている科学者が目指しているのは、(目の前にある青いものを指差して)まさにこの青く見えちゃうっていうことの神話的なものの背後にある運動体を見たいっていうことですから。

T そうですか?

M はい、そういうことです。

T ふーん… でもねそれはちょっと違う面があると思うんですよ。そのたとえば青いものがなんかあるとしてね、それをひとつのクオリアだとするでしょ。 それで それをこう感じている? 運動体? まあ人間でしょうね それに話をもっていって、そっから理解しようとする、というんじゃなくてね、その…じゃあ、青だった、しかしもう青ではない、そこの変化だと思うんですね、むしろ。それが違う論理なんですよ。  

(田島: 高橋は、「クオリア」では変化する人間の心的現象を捉えることはできないという。科学的方法は対象を目の前において観察する。しかし心的現象の場合は観察対象と観察する自分を分離できない。クオリアをつくり出す運動体を仮定している限り、それは従来の論理である。そうではなくてそのような運動体を仮定することなしに、心的現象の変化そのままが重要であるという。)

M 記憶のことをおっしゃってるんですか?

T いえ 記憶じゃないですね。「青だ」って言ったときは記憶なんですよ。それは名をつけることでしょ? 名をつけるというのは所有することなんですよ。だから 所有しないで、表現をすぐしないで、 そして、その変化していくものについていく。そういうことから或る種の論理が出てこないかっていうようなことですね。それでそれは、だから、或るものを見て、それでそれを感じているまあ主体なり運動体なりに 還元するっていうのはそれは還元なんですよ、やっぱり。それでそれは、死体を解剖するような、そういうことに結局戻っていくと思うんですね。だから、見ているそのこと自体が変化している、じゃあその変化っていうのは何だ?っていうことに対応して何か論理をつくっていく、つくり出していくというほうが、まあ面白いことだと、面白いってまた言っちゃうけどね。

(田島:ここに新しいパラダイムが提唱されている。名づけも分析もしないで、在るがままに変化についていく、主客一体の運動性に高橋は可能性を見出している。西田哲学を連想させる。)

M それはふつうに複雑系の研究者コミュニティの…だからそれはここにインスタレーション出している池上高志とさんざん議論したことと関連しておりまして、それはある意味では力学的世界の無限運動というものは…扱え…つまりこれまさに面白いっていう問題なんですけどね、高橋さんのおっしゃる。知的な意味では例えばカオスとかアトラクタとか色んな概念を出してきたというのは面白いんだけれども…。
要するに革命家なんですよ、我々が目指しているのは、認識における。 ですから従来のニュートン力学、量子力学の延長線上では扱えないものとしてクオリアっていうのが登場したわけで、哲学的な意味でそこがデッドエンドとしてクオリアを扱うっていうんだったらそれはそれでもう形而上学っていうか、神話化が起こっちゃって跪くということになるんだけど、その向こうにあるもののベールをはぎ取ってみたいんですよ。そのベールをはぎとるという運動自体は決してその…高橋さんが批判された小林秀雄のモーツアルトみたいなものとは違うと思うんです、それについては私、いろいろ反論がありますけど…まあ置いといて。
決してその西洋の形而上学の体系の前に跪くこととは違うものを目指しているんですよね、それが今んとこ表現できてないっていうだけです。難しいので非常に。

(田島:おそらく茂木は高橋の提唱したことが理解していない。複雑系とかカオスとはまったく別の話だ。)

T それはね、難しいんですよ。確かに。でもそれはね…何ていうのかな…認識する? 認識するということと同時になにかが動き出して…だから認識するっていうことは何なんですか?言葉なんですか?

(田島:高橋は「クオリア」を「認識」という言葉に置き換えているようだ。認識することと変化する心的な運動は両立しない、という結論を導きたいのだと思われる。)

M んー… そのときにおそらく、高橋さんがさっきから言われているようなムカデの運動のようなものがどうもいたるところで起こってしまっているんですね、ですから音楽を聴いている時に一番気になるのは実はそこでして、つまり本来認識さえもできないような、ムカデの運動のようなものができちゃうんですよね、そこが問題なんだと思うんです本当は。 で、それはひょっとしたらオバケのようなものとして我々の中にあるだけで、認識できてないかもしれないんですけど、本当はそれが主役のような気がしますね、音楽を作るにしても聴くにしても科学をやるにしても何にしても。

(田島:茂木のいう「オバケのようなもの」とは、意識されない身体の活動のことではないだろうか?)

T まあ 音楽をつくる場合はね こういうふうにべつの論理があると思ったらそれでひとつモデルをつくるわけなんですけどね…それが音楽なんですから。そのプロセス自体が、音楽となって聴いてる人に共有されればそれでいいわけでしょ? だけど、じゃあ科学でムカデをつくるっていうのはどういうことなんですか? あのね、ムカデを解剖してね…ということは簡単にできる…簡単でないか… まあできるわけですよ。 じゃあ、ムカデをつくることがどうやってできるかということになりますね。 
 
(田島:ムカデの運動のような「別の論理」をモデルにして音楽をつくることができる、と高橋はいう。その上で「科学はムカデを作れるか」と挑発している。)

M うん…それは…大変ですね。

T それはなんていうかなあ…ほら、人を殺してはいけないのは何故かっていうようなことを色々言われるわけでしょ。 だけどひとつの説明は、殺すのは簡単だ。 一瞬でね、できる。だけど人をつくるということはすごく大変だ。 だからそんな簡単に壊しちゃっては困るというようなことをいうでしょ。  だから、やっぱりムカデを殺すのは簡単だけどムカデをつくるのは大変だっていうようなことになる。 だからそれをね、あるものを認識するということと、じゃあそれが自分にとって何なんだっていうこと? 自分っていうのはおかしいけど。それから、こうムカデのようにどうやって歩きだすかということなんですよね。

(田島:認識を問題にしている限りは動きだすことはできない。茂木の考えるクオリア(=認識)では、ムカデは一歩も踏み出すことはできない。…高橋はそう言いたいのだろう。)

M 科学者はね「タナトス」の人間なんで、しょうがないんですよ、これはちょっと説明が要るんですけど僕は科学なんかやめちまえって思ったことが今まで…これちょっと不用意に言うと陳腐に聞こえるので言いたくないんだけど…一度だけあって…それは沖縄で喜納昌吉のライブを聴いたときなんですよね。それを見て、聴いてなんか皆笑うかも知れないんだけど、そんときはもうやめちまえと思って、それはまさにその科学っていうのは、相対性理論のような飛びっきりの成功事例においても、或る意味では解剖してることですからね、宇宙をね。生の運動自体に身を投げているっていうよりも解剖してることなんで、で、だったらですね、ひんやりとした結晶化の作用というのがたまらなく良かったりするんですよね、うまく言えないんですけど。だから支配とかそういうこととは全く関係なく、タナトスなんだと思いますけど …ですからムカデをつくることだけでは我慢できない人種がいるんですよ、きっと世の中には。

(田島:宇宙を理解したい=解剖したいというタナトス的欲望が科学を発展させてきた、それは紛れも無い事実である。しかしその知の支配欲を満たすという快感が、近代を作ってきたのであって、茂木のこの発言は、科学的欲望(近代的欲望)の正体を言い当てている。)

T いやそれはわかりますけどね。それだからやってることはたまらなく面白い。だから原子爆弾でもつくれるわけですよ。それでこれはね、誰か別のやつらが利用してるんだから、こっちは関係ないとは言えないわけでしょう? だからね そういうふうに分離しているっていうこと自体が問題じゃないかと思うんですね。まあ科学は音楽じゃないし、音楽は科学じゃないとかね それから哲学はまた違うし そういうふうに最初から分けるでしょ?

M いや、僕は分けてないですけど。まさに名づけの問題で、音楽っていう名前をつけちゃうからいけないんですよね、科学という名前をつけちゃうからいけないんですよね。
     
T いや名前をつけちゃうからいけないんじゃないと思いますね。

M 僕は別に分けてないですよ、自分の実際の生き方の中では。

T それは心情告白でしょ? (会場笑い)

M う…ん、そうですよ。

T それは要するに信じるよりないってことですよね。 それを聴かされた人は。(会場笑い)。

M うん、そうかも知れないですね。

(議論が混同している。知の体系が分割されているという現在の文明の事実と、茂木個人の知の捉えかたが混同しているし、その揚げ足を取る高橋も生産的ではない。)

T だからそれよりもうちょっと先が…。

M といいますと?
 
T それは…茂木さんの問題じゃないんですか?そんな代わって代弁するわけにはいかないですからね。

M まあ人間一生に一度だから、別に自分の生き方は自分で責任とるしかないんでいいんですけどね。

T いやよかないですよ。自分で責任をとるっていうような 自己責任っていうことがね、やっぱり良くないんだと思うな。

M いや、高橋さんのいうことはわかるんですけど、お聞きしてそんな違っているようなことを言っているような感じはしなくて、つまり、そのまた変なメタファーになっちゃうんだけど…安定的なものの背後には必ず不安定なものがあるわけで、…それはマクロな物体の背後には量子力学があるわけで…おっしゃることはわかるんですけど、一貫して主張したいことは、高橋さんが批判されている対象だって、そんなに気楽なもんじゃないんじゃないか、ということです。オーケストラのヒエラルキー性を批判されるのは了解いたします、でもオーケストラの中で演奏している人たちの立場ってそんな気楽なもんじゃないんじゃないか…そういう制度を前提に指揮をしたりとかコンサートを喜んで聴いてる聴衆だってそんなに気楽なもんじゃないんじゃないかという気がするんですよね。

T それはちょっとあんまり論理になってないんじゃないですか? それは、どんなもんだって完全ではないに決まってるわけでしょう? それで今オーケストラがだめだからっていって オーケストラのミュージシャンが可哀想だっていう話にはならない。

M いや可哀想ってことではない。

T それから、オーケストラで何もできないかっていうと、そんなことはないんですよ。それから違うものがもう確実にあって、それに一挙に置き換えられるということを誰かが主張したとしたらそれこそ なんか空論でしかないわけでしょ。それは歴史的な過程があるわけですからね。 500年でここまできたものが。だけどそれはヨーロッパだけではないんですよね。 同時に並行して違うものも進んできた。 だからそっちのほうに目を向ける、じゃあヨーロッパがあって、それから世界中でそれを取り入れるなり反発するなりというようなことがすでにヨーロッパ中心主義でしょ? 
M と、いまヨーロッパ中心主義と言われたことでさえ、ぼくはそれほどに気楽なことじゃないと思ってるんですよ。
 
T そんな気楽なことじゃないですよ。それは。

M だから、その白黒二分法でいかなくてもいいんじゃないですかと、逆に、僕は高橋さんに言いたいんですよね。

T どこが白黒二分法なんですか?

(田島:茂木は近代の美学から出ることはできないであろうと考えている、いわば体制内改革派であるが、高橋は近代を真っ向から否定する急進派である。高橋は否定しているが、茂木に白黒二分法といわれても仕方ない。)

M 私が何かさっきから言うとそれを解体する方向へいきますよね、解体する対象自体がそれほど気楽じゃないでしょう、とうことを言いたいんですよ。

T そうそう。だから気楽なものじゃないから、いろいろ質問してるわけじゃないですか。そんなことにイラつかれたら、話は進まないですよ。

M いやいやイラついてるんじゃなくて、僕は非常に正確に状況を記述しようとしているだけです。いまここで起こっていることを。私の視点から見たっていうことですけど。

T うんだから、どうして記述しなくちゃいけないんですかねえ。

M と、また始めるでしょ?だから困るんですよねえ。

T だからね その記述するっていうのは 一瞬前に他人が言ったことを定義するわけでしょ。それで定義っていうことはね、ちょっと問題があると思っているんですよ。 定義っていうのは それを孤立させることで だからそれよりは どういう関係がそこで生まれるかっていうことが面白いと思うんです。 

(田島:ここにも両者の違いが現れている。茂木は起こっていることを常に記述ながら議論を進めようとする。高橋は現象を記述すること自体に問題があると考えている。)

M いや僕は楽しんでます、この関係性を。あとあのう…凄く難しい問題になっちゃうますけど…たとえば脳っていうのは治験が不用意に社会で利用されやすい分野で、例えばだからこういうことやると脳が活性化するっていう言説が出回りますよね。それを批判するっていうのは私もよくやってますし、それはそれでいいんですけど、一方でそう言い切っちゃてる人がいて、そう言い切ることで事態を動かし、そこで立ち現れているものもこの世のダイナミクスのひとつであって、なんていうのかな…それほど単純なものではないんだと思うんです。いま定義とおっしゃったもの自体が、そんな単純に、じゃあ定義はやめようというふうに葬り去られるようなものではないと私は思うんですけども。近代的自我がないっていうときだって高橋さんは高橋悠治っていう形で生きてきていらっしゃるわけで、それを…脱構築して脱神話化するっていうのは凄く共感を得やすいんですけど、じゃあ近代的自我っていうのが、ゼロになるのかというとそんなことはなくて、まだ或る種のオバケとしては在って、在ってはいけないものかというとそうでもないんじゃないかというふうに思うんですよね。それが何か一番最初から僕はあのう、せっかく今日こういうふうにお話させていただく機会があったので、一貫して僕は言いたいことだったのですけど。

(田島:現象を定義によって議論の対象とし、有効性や是非を問うということは近代のダイナミズムである。私はこの働きは葬り去られるものではないし、そうなってはならないと思う。)

T だけどそれはまずいんじゃないですか?どうもさっきから結局近代の擁護にまわっているような… 

M そんなことはないです。私はそんな近代を擁護するとかそんなふうに自分を定義づけているわけではないわけで。僕はただ、…そんなに遠くまでみえてるわけじゃないけど…自分が見えてる世界を正確に言ってるだけなんですよ。私にとって見えている世界ですね。僕は高橋さんの音楽は良かったと思います。それは嘘偽りない事実です。それを後で、脱神話的なアプローチからアートというものを作っていると称している人たちの作品が、近代の中でアートとして言われて来たものに比べて感銘が薄いっていうのも私はこれも正直な事実なんですよ。それはただ事実として申し上げているだけで近代を擁護しているわけじゃなくて、そういう体験がありますということを申し上げているだけで。 そこで必ずしも批判の対象になっているもの…近代とおっしゃいましたけど…は、ダースベーダーみたいに悪の化身っていうわけではなくて、もうちょっと、ちゃんと考えてみるべきものが含まれているんじゃないと思っているわけです。それを申し上げないと今日ここに出てきて高橋さんとお話する意味がないと思ってるんですね。僕が高橋さんの著作とか読んで、拝見して理解したときに、私がいまここで、ホントに若輩もので、人生経験も違いますし、見てきたものも違うんですけど、私がそれを言わなければ全然意味がないと、思うんで。
 
T そうかなあ。そういう役割をなぜしなきゃいけないんですかねえ。

M いや役割をしてるんじゃなくて一番言いたいことなんです。

T それは…なんかつまらなくないですか? そういう役割を背負うっていうのは。

M いやつまらなくても何でもいいですけど、僕はそういうふうに思ってますから。本気で。いや、つまりあのう…もちろんあの…いろいろ分かってるでしょ、世界の中のその、私だっていろいろやってきたんですからね、そのう科学者として。(場内爆笑)

T …だからさあ、だからまあ、心にもない一般的なことを言わなくてもいいと思うんですよ。 

M 心にもないことなんか言ってないですよ。本気で思ってることを言ってるんですよ。なんで私が心にも無いことを言っていると思われるんですか?

T うー…ん  あのねえ だから近代の自我とか そういう言葉の使いかたっていうのはね 一種の啓蒙だと思うんですよ。ここにいる人たちに対する。 

M そんなことないです。

T そうですかねえ。

M 啓蒙するつもりなんて全くないですよ。僕はここにいる人たちを同志だと思ってます。

T そりゃまた簡単に…同志になれるのかなあ… (場内笑い)

M なんか悪夢的だなあ。(場内爆笑) 何を言ってもなんかさ、素直に受け取ってくれないっていうか何ですかね…

(田島:茂木の言い方にも煮え切らないところがある。近代を否定した態度自体に近代が適用されているというということが茂木の論であるが、その適用されている判断基準は「美」であるという。しかし現在の芸術にとって「美」の定義は不可能に近い。)


… … …

M 高橋さんの言っていることには共感してるんですけども、その一方で、美しいということを差別だとかファシスト的な心性だとかいうことで、否定して、全く面白いっていることは制作者側の考えることだっていうことは、僕は別に評論家でも何でもないんで、科学の現場でそういうことをやってるわけですから…それはそれでわかるんですけど、美しいっていうものを高橋さんみたいな物言いで、葬り去った時に現れる世界っていうのは何なのか…葬り去れるものなのか。

T 美しいっていうような判断がファシズムだっていうのは、茂木さんがおっしゃったんですよ。(私は)そんなことは言ってませんよ。美であるか美でないかっていうようなことは ものを作るときの動機にはならないっていうことなんですよ。

M それはいいですよ。

T だからそれでいいんじゃないですか。  

M いやでも、それは今は抑制的に高橋さんが言われてるわけで、ぼくは本とか読んでるわけだから高橋さんの書かれていることを読んで、そこで言っているだけです。 つまり、小林秀雄は骨董屋のように昔からある骨董品を撫でまわしてどうのこうのと書かれて …ああいう言い方をされるのはそれでわかるんですけども、そこで否定されているものはそんなにたちの悪いものじゃ、ないんじゃないですか。

T いや、たちが悪いもんですよ、あれは。(場内笑い)  あのねえ、名人が、達人が、っていくら言ったってね、美がなんとかであるっていくら言ったって、じゃあそれを作るのはどうするのかっていうことはわかんないでしょ?

M それは、小林が文章を作ったわけじゃないですか、同じことですよ。

T いや、同じことじゃないですよ。

M いや僕は同じことだと思います。

T それはね批評家としての…
 
M 批評家の文はその人の作品なんですから。そこで音楽家の立場を特権化する権利がどうしてあるんですか?おかしいですよそれ。それは作家がいて、それを批評する立場がいるっていう古典的な構図を当てはめているだけじゃないですか。
  
T そんなことはないですね。 

M いや、ものをつくる人間ていうのを特権化する態度がおかしいと思います。
  
T ものをつくる人間を特権化してるんじゃないですよ。

M いやしてるじゃないですか今だって。

T 音楽をつくるっていうことは、つくることのすべてだと思います? 

M そんなことを僕言ってないですよ。 だから、小林は文をつくったんじゃないかと言ってるんです。
小林の「無常といふ事」とかあるいは「当麻」という文章は、作品じゃないですか。文字の配列を並べてるわけだから、それはひとつの作品じゃないんですか。 まったくそこで彼らが心がけたことっていうのは同じじゃないんですか、つくるという態度においては。なんでその、古典的なその、わかんないけど、ものを作る人間と骨董屋でものを撫で回して有難がる人間ていうその図式に当てはめて切り捨てるんですか。

T その図式に当てはめていると思いました?ぼくのどこにその図式があるんですか? 

M いやものを作るということは、そういうことでは言えないといった瞬間に区別してるわけでしょ。

T 違いますよ。

M どこが違うんですか。
 
T ものをつくるときは、美しいものを作ろうというふうには、しないということのどこが特権化なんですか。

M それは文章を 書く人だって同じだと思いますよ。
 
T いえいえ「美」っていうふうに言ってるのは、結果でしょ。だから結果から始めて物をつくることはできないんですよ。 それは、そういう人を特権化してるんじゃないですよ。料理つくるんだって何だって同じですよ。

M それはそうだと思いますけど。

T そうでしょ? だからそれでいいじゃないですか。どこが特権化なんですか。

M ぼくが一貫して理解できないのは、最後に美しいものができて、それを美しいと思うと言うことには意味がないと思っているんですか?
  
T それは 意味がないって言ってませんよ。 それは、ものをつくるときには役に立たないって言ってるんですよ。 そういうことを例えばモーツアルトについていくら言ったって、そんなことは何の役にも立たないわけですよ。
 
M ものを作る上では役に立ってないでしょうね。でもそれによってインスピレーションを得て文章を書くということはひとつの制作ということじゃないんでしょうか。
  
T それは小林秀雄の文章がいいっていうことを言ってるんですか? そうじゃなくて、じゃあモーツアルトについて書いて、そしてそこから違う音楽なり何かが生まれてくる、そういうプロセスを解明するっていうようなことのほうが…なんていうのかなあ…これは美しいとかさあ、そういうこと言ったって、これは天才であるとか言ったって言葉の無駄じゃないですか? 

M いや僕は小林はそんなちんけな奴じゃなかったと思いますよ、そんなふうに片づけられるほど。

T まあ歴史的な役割っていうのがありますからね、小林秀雄の。だから後の批評家はみんなああいうふうになったわけですよ。それはいけないんですよ。

M それについては僕は、まったく…わかんないです。高橋さんが同時代の音楽評論家の…

T わかんないことはないですよ。文芸評論の中だってあの後どうなったかっていうのはあるじゃないですか。

M エピゴーネンと最初の人は違いますからね。それは小林本人の責任じゃないじゃないですか、そのエピゴーネンが出てきたっていうことは。

T あれがエピゴーネンでないとどうして言えるんですか。

M 小林秀雄自身がエピゴーネンということですか?

T そうです。

M うーん。そういうふうに高橋さんが思われるのは勝手で、俺はそうは思わないですからね。見解の相違ですね。

(田島:茂木は小林秀雄に深く傾倒していて、自身のブログ(クオリア日記)でもそれを述べている。http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/10/post-f9b5.html

T 見解の相違ね。見解の相違で話が終わるんならこんな楽なことはないですよ。そういうのはね、議論とは言わないんです。

M 議論も何も高橋さんはさっきから何も聞いてくんないじゃないですか、僕が言ってるのに。(場内笑い)

T え? なんか納得できるようなことを言ったんですか?(場内笑い) なんか、科学がどうのとか言われたって、そんなことは本に書いてあるわけでしょ。

M 何ですか、本に書いてあるっているのは?  なっんかいじわるだよなホントに。僕は一生懸命高橋さんに分かっていただきたいんですよ。高橋さんの立場を否定してるんじゃないですよ。でも、高橋さんに色んな思いがあって、ああいう文章を書かれたんだろうし、水牛団だってやられたんだろうし。アジアのいろんな音楽をああいう形で扱われてきた、ということは皆が認めることなんですから。そうではなくて、そこで高橋さんがああいう形で叩いたものは、それほど敵じゃないんじゃないですか、ということをただ言いたかっただけなんですよ。

T 誰かを叩くっていうのは、どういう意味があると思います? それは戦略というもんでしょ。そんなもんに引っかかってて話になんないじゃないですか。それは。

M はい?

T 小林秀雄について、書くことを頼まれてですよ、書くきっかけっていうのは小林秀雄特集だったわけですよ。それでみんなが素晴らしい素晴らしいと言うから、批判する役が回ってきたわけですよ。そしてそれは或る意味があった。そういうことですね。それがまあ…どっかに引用されて、後からどうこうっていうっていうのは引用する人たちの都合なわけでしょ?

M それはだって誰だってそうですよね。そういうことは。誰でもそうですよ。一貫してわかってるんですよ、だって、我々生きてる現場っていうのはそういう現場なんですから。分けわかんないかたちで。例えば、今日この場だって、私は渋谷慶一郎に頼まれて。 僕は高橋さんのコンサートを聴いて非常に良かったから、是非お会いしたいと思って来たわけで。 でもそういう意味で言うと、「戦略」という言葉は使いたくないけどそういうきっかけでここにいるわけで、別に高橋さんの言われるような…なんていうかなあ…面白いからやるっていう態度と全然変わらないですけどね、そういう意味でいうと。

T (沈黙)…はい。(場内笑い)。それで?

(係りの人が高橋に近づき時間だから話を切り上げるように促す。)

M いや、だから、どうしたらいいのかわかんないですけど…

T どうしたらいいでしょうね…。だから話は結局終わんないわけですよ。こういうふうにしてくとね。ええ、それでもう時間だからやめろ、と言われることになるわけです。

M うーん。

T ええ…どうしますか。またどっかで話をしますか?

M そう…ですね。

T それよりしょうがないですね。 (観客は対談の終わりを感じて拍手)

M でもなんか、ほんとに…全然ないですか? 5分くらい質問とか…もし…。会場から言いたいことがある人とか色々あるかも知れないんで。どうでしょ?

T あのねえ 言いたいことを言えない苦しみっていうのを味わったほうがいいと思うんです。(場内爆笑)

M …まあ、じゃあそういうことで…はい。 どうもありがとうございました。

(茂木は立ち上がって高橋に握手を求める。応じる高橋。両者握手)(場内拍手)



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高橋の近代批判は激烈なもので、人の心的現象を対象と捕らえることが「支配の体系」であるとして手厳しい。「水平的な結びつきで、違うネットワークを重ねて或る全体をつくる」という「新しい論理」に期待を寄せているが、結局具体的には何も語られなかった。最後に言った「言いたいことを言えない苦しみっていうのを味わったほうがいい」という言葉は、茂木にあてつけているだけではなく、その先を語りたかったのにそれが出来なかった、という高橋本人の気持ちでもあるのだろう。
しかし、近代を全く無効にすることはできないしそれはナンセンスだろう。私たちの社会は茂木のいうような近代的ダイナミズムが生活に隅々まで行き渡っている。「新しい論理」は近代的なダイナミズムの上にかぶさるようにして展開する価値に違いない。

一方、茂木の論は歯切れが悪い。高橋の立場を否定しないといっているが、話の展開からすると否定したほうが良かっただろう。おそらく高橋の引き立て役として対談に臨んだ立場上、真っ向から否定することは避けたのだと思う。
また茂木のいう美のジャッジメントというものも想像しがたい内容である。現代の芸術における美の基準は定義不可能であると思う。ロスコの絵画とデュシャンのレディメイドを両方とも包含する美の基準をつくることは困難であるように思う。それでも何かのジャッジをしているというが、つくり手は制作意図に対して有効であるか、効果的であるかどうかで判断しているので「美」はさほど問題にならない。

高橋有利に終始したかのように思える対談であるが、果たしてそうだろうか?高橋に「あたらしい論理」とは、「水平的な結びつきの全体」とは、具体的にはどのようなものですか?と質問したら高橋はどのように答えただろうか?

この対談から7年と少し経っている。社会状況は変化し続けている。今ならもう少し成熟した議論ができるだろうか?


参考:この対談が行われた直後の茂木健一郎のブログ「クオリア日記」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/12/post_5f5b.html




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2013年1月2日水曜日

現在の身体のリアリティ

現代に生きている私(たち)の身体を、どのように表現したらよいのだろうか。


無題
アスファルト、トウガラシ、シナモンパウダー、糊

これが、私の感じる、現在の身体のリアリティである。
もはや私たちは、素直に五体を表現することは出来ない。

私たちの身体は2つのオリジンを持つ。一つは、生命誕生から引き続いている長い歴史の中に位置づけられている。もうひとつは、現代の技術文明に位置付けられている。私たちの身体は、現代の技術文明に寄生して生きているとも言える。

私たちの身体の、この2つのオリジンは、互いに相容れるものではなかったはずだ。しかしそれでも私たちは、何とか調和を保っていた。
しかし、あの時、調和が破れ、恐ろしい実態を見てしまった、「見た」という生易しいものではない。完膚なきまでに叩きのめされた。
東日本大震災が引き起こした津波が、街や人を飲み込み私たちの身体をメチャクチャに痛めつけた。また、私たちはその後の放射能汚染の見えない不安と戦う日々を過ごしてきた。

だから私は身体を思うとき、信頼を置いていると同時に、ある違和感を・・・いや不快感を感じる。
重要なのは、そのことを感じ取る感受性だ。自分の身体感覚のみならず地球レベルで広がっている現代の技術文明の感覚のリアリティを、自分の感覚のリアリティとして実感することだと思う。



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