2012年7月9日月曜日

感覚は解放されなければならない

前にも書いたが、私は感覚や認識が自分の肉体の中に制限されていることについてひどく不自由を感じています。
本来そうでなかった筈だという思いが強くしています。


だから本来私は「全て」なのであって、宇宙の全ての感覚をもっていたのだが、それが狭い範囲に抑圧されており、私が持っているような意識は、その抑圧の結果出来たものではないでしょうか。


太古の人々は神話による感覚的な自然解釈によってその抑圧を緩和してきたのですが
現代のように科学が発達した時代では、科学技術がそれを分断しています。


その代わり、地球規模で広がる技術文明をつくりました。
宇宙規模、地球規模の感覚を、この技術文明にゆだねているようなところがあります。


これは決して健全とはいえないと思います。


感覚は解放されなければならない。・・・これは、実現不可能な無理難題ではなく、必然的にやらなければならないと思うのです。




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2012年7月2日月曜日

手を触れた

我が故郷、飯能に行ってきた。


親父の菜園の収穫を手伝った。


土、野菜、虫、などに手を触れた。

















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私の聖地



飯能の矢颪(やおろし)というところにある入間川の川沿いに凝灰岩層が露出しているところがあります。

凝灰岩とは、火山灰で出来た岩ですが、この矢颪凝灰岩層は、何の火山噴火が原因で出来たのかいまだにわかっていません。凝灰岩層がこれほど大きく露出しているのはこのあたりでここだけです。

私の子供のころは、ここでよく遊びました。


岩が白いので一見、異世界の風景のように感じます。

そして地層とは、過去につながる場所です。


時空を超えた場所・異世界のように感じるところ・・・そのような場所は聖地と言われます。


ここ、矢颪凝灰岩層は、私にとっての聖地とも言えるところです。

栄養がないせいか、草が少ないです。

ボロボロとこぼれる


水溜りにアメンボが沢山いました。

何層にもなっています。

河野水が流れて出来た穴。石がころがって削れたのでしょうか

川を挟んで立つ新興住宅

関東ローム層の上に積もっています。




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2012年7月1日日曜日

私には根本的な疑問がある





私には根本的な疑問があるのです。


奇妙に聞こえると思いますが、以下のような疑問です。






どうして、私は私であって、あなたではないのか?


どうして私はここにいて、あそこにはいないのか?


どうしてここから、あそこに移動するのに時間がかかるのか?






私というものが、このちいさな肉体に限定されているということが
どうにも疑問なのです。


実は私が私であるということは、何の必然性もないのであって
私は、あなたでも、ここでも、あそこでもよかったのだが
たまたまここにわたしがいるということに過ぎない。


元々、私(あるいはあなた、あるいはここ、あるいはあそこ)は、
あらゆるところに在ったのだが
どういうわけかここに(この肉体に)収束してしまい
残念ながら私の肉体のなかにおさまってしまっている
というわけです。


だから本来私はすべてなのです。




たまたま、この肉体に居るだけのこと
そしてそれによって、
外界を検出する範囲は、わたしの肉体のもっている感覚器によって限定されてしまっています。


感覚は、すべての場所にある。すべての場所、あらゆることに万遍なくあるのです。


ところが不幸なことに、私の中に、私の肉体の中に押し込められている、
抑圧されているのです。
そしてその抑圧された感覚を感じ取ることができるのは、
わたしの哀れな狭い意識であるというわけです。


だから私は、私の感覚は、普遍的な感覚に解放されなければならないのです。




もっともらしい理屈を言ったり、現代芸術ととなえて妙なことをするのも
とどのつまり、このことを実現したいためなのです。



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