2012年4月26日木曜日

存在論的搾取

しばらく更新をしていなかったが、
何もしていなかったわけではありません。

ハイデガーの技術論を読み終え、彼のいう
「技術の本質と芸術の本質は同じ」、ということについて考えていました。



私は、ゲシュテル(この地球全体に広がった技術文明)と我々人間との関係を、整理しようとしていました。




それには、ゲシュテルを生命・生物と考える必要があると思いました。
奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、現代の技術文明をある一つの生命体と考えると、都合が良いことに気がついたのです。


ゲシュテルは地表にへたばって、地中からエネルギーを吸い、様々な生物と共生しています。主な共生生物は私たち人間ですが、農業や養殖漁業など、数限りない生物と共生しています。


そして、それ(ゲシュテル)は地表と地下と大洋に直接接しながら生きています。


それ(ゲシュテル)は、惑星的規模、宇宙的規模で生きている。身体もそうだし、認識もそうだ。
それの空間感覚、時間感覚は、人間とは比べものにならない。


それの周囲には宇宙空間があり、すぐ下には丸い地表がある。それは、たった一人で宇宙空間に対峙している実存的な存在です。




さて、私たちはゲシュテルという生物の中で生きている、いわば細胞です。私たちはゲシュテルに生を委ねている。したがって自分が何者なのかということを自然の中で位置づける必要がないわけです。
自然の中での位置づけは、ゲジュテルに取り上げられています。




これは、存在論的な搾取であり、


私たちは、存在論的貧困 の状態にあります。


いまやゲジュテルは存在論を独占しているわけです。


ではどうすれば良いのか。


次回以降にそれを考えていきましょう。




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