2012年12月24日月曜日

1950年代と3・11後の現在の身体表現の共通性

東京国立近代美術館で開かれている「美術にぶるっ!ベストセレクション 日本近代美術の100年」を見てきた。

特に第2部「実験場 1950s」が興味深かった。
戦後日本の作品の中でも最重要といわれる河原温の「浴室シリーズ」全作品が展示されていたのをはじめ、鶴岡政男の「重い手」など戦後の肉体表現が展示されていたコーナーがあった。

私は、これまで、戦後の肉体表現がなぜこれほど人体を歪めて描いているのか、よくわからなかった。特になぜ河原温の「浴室シリーズ」が、衝撃的な作品だったのか、理解できなかった。

しかしちょうど今、菊畑茂久馬の「虚妄の刻印 1950年代美術」を読んで、それが理解できた。(「戦後美術と反芸術」に収録)
50年代の美術はどこから何が始まったか。50年代美術は「肉体絵画」から始まったのである。福沢一郎「虚脱」(1948年)、「敗戦群像」(1948年)、鶴岡政男「重い手」(1949年)「夜群像」(1950年)、麻生三郎「ひとり」(1951年)、阿部展也「飢え」(1948年)、「神話」(1951年)・・・・・・頭に浮かぶまま並べてこのあたりで止まった。何かしらともなく一種おぞましい気分が漂ってくる。逃れようもなくわれわれ戦後思想の祖型である。どれもこれも、どろどろ、うねうね、うめき、苦しみ、転がされた「肉体絵画」である。
(中略)それよりも何よりも、気持ちが悪いほど戦争末期の玉砕死闘図と似ている。そしてこの二様の肉体虐待絵画は、戦中のはみな服をつけているが、戦後のものはみな裸んぼである。何故だろうと思ったがわからない。
(中略)絵描きはすべてこの期、戦争を通過してきた己の傷ついた精神を、まず肉体という皮袋の中身を取り替えることで癒そうとしたのである。
(下線は田島)


この文を読んだときに、私は膝を打って納得した。今回の東京国立近代美術館の展覧会では藤田嗣治の「アッツ島玉砕」もあった。私もその迫力に眼を見張ったが、それと同じなのだ。
(ちなみに「戦後のものはみな裸んぼ」の答えは明白である。戦争画は軍服をつけていなければならないからだ。戦後の絵画は肉体性を強調するため、裸でなければならない。服をつけること自体がよそよそしいからだ。)

戦争に打ちひしがれ、雨あられと爆弾を落とされ、どうしようもない暴力によって引きちぎられた身体を、画家たちは率直に表現したのだ。この文脈の中に、「浴室シリーズ」も位置づけられる。この絵の中の密室のバラバラ死体は、むしろスタイリッシュに洗練されているともいえる。
人間と国家(戦争)という近代的な装置との抜き差しならない関係において、人間という生身の身体の側から表現すると、どうしてもそのような「どろどろ、うねうね、うめき、苦しみ」ということになる。


さて私は、1950年代と現在に、何かの共通点を見出したいと思っている。

3.11後の身体の表現は、どのようなものになるだろうか。
津波に飲まれる建物やクルマを強烈に脳裏に焼き付けられ、その後の放射能の見えない不安に曝され、一方情報化社会が進行し、肉体は分子のレベルで治療法が開発され、グローバル経済は我々の生活を直撃するほど身近になった。
1950年代の時点では、戦争は肉体を外側から痛めつけるものだった。とにかく戦争は外からやってきていた。
しかし今、巨大な装置は我々の内部にある。それと一体になっている。

手に負えないほど巨大なものが、我々の身近に・・・いや我々の内部から・・・いや、我々自身が、その手に負えない巨大なものと一体になっているこの現状を正しく把握しようとする者は少ない。

この時代の身体の表現は決して人間の姿をしていないだろう。
私は今、そのことと格闘しているのだ。



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2012年11月20日火曜日

萩原朔太郎 遺伝

萩原朔太郎の詩に、「遺伝」という詩がある。


以下、青空文庫から転載
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1768_18738.html


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 遺傳

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
  のをあある とをあある やわあ

もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聽き! しづかにして
道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
  のをあある とをあある やわあ

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」

遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。

犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
  のをあある とをあある のをあある やわああ

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」

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この詩のクライマックスは
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
という部分である。
犬は何におびえているのだろうか?
「敵」とは誰か?
それは、「遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに」あるものであり
「あはれな先祖の姿」である。

我々は地球に生命が生まれて、数限りない世代を生き残ってきた子孫だ。我らの祖先の生存競争の過程には、思い出したくもない忌まわしい記憶の数々があるのだろう。

近親相姦、見殺し、共食い、・・・いや、そんなものではあるまい。
生殖が単生殖であった時代の自分が2つに裂ける感じとか、凍てつくような寒さに閉ざされた記憶、体が変形するような苦痛の記憶・・・
犬は、それらを「敵」と思って吠えている。
しかし、それらの「敵」は、遺伝によって自分自身の内部に入り込んでいるのだ。なんということだろう。「敵」とは自分自身なのだ。
搾り出すような犬の声は、奇妙に歪み、吠える対象は、「遠くの空の微光」ではなく、自分自身に向けられていく・・・

さて、今や我々の「敵」は、この「先祖の記憶」だけなのだろうか?

この現代の社会もある意味で「敵」のひとつだ。自然と我々の直接的関係を奪ったのはこの現代の技術文明だ。
しかし、我々はこの技術文明抜きにしては生きていけない。「敵」」に向かって吠えているつもりでも、吠える声は奇妙に歪んで、自分自身に向けられていく。
我々は自然を食い物にして生きている技術文明の一部として生きている。それにいくら嫌悪しようと、それは、自分自身の姿なのだ。

このような自分自身のとことんまで戦慄し、幻滅し、絶望し、そして生きていくしかないのだろう。朔太郎の犬のように吠えながら。




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2012年10月30日火曜日

意識は傍観者である -感覚の全体性ー

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

「意識は傍観者である」 デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子 訳

話題の本だか、興味深い内容が満載だった。

その中から、感覚に関する事例を抜き出して、私が考えたことを書きます。

ブレインポートというものがある。視覚を失った人のために、外の風景をカメラで撮ってその映像を口の中に入れた板に味覚刺激として反映するシステム。
そうすると盲目の人であっても、外の風景が舌にピリピリした感触となって反映される。エリック ウィーン マイヤーという登山家は、盲目にもかかわらず、この装置を使い、エベレスト登頂に成功している。
この例は視覚が舌の上の刺激によって補完されているのではない。味覚情報によって周囲を「見ている」ということなのだ。
つまり、「見る」ということは網膜で起こる現象ではなく、感覚器上でおこる空間的な現象ならば、何によっても「見る」ということがいえる。

また人によっては共感覚という感じ方がある。言葉や音が色づいて見えたり、数字が身体の場所と対応していたりする感じ方のことだ。

私の妻は、ある音楽を聴くと色が見えるという。どういうふうに色が見えるのか訊いて見たのだが、色が見えるわけではなく、感じるのだという。また音にはある種の触覚的な感じもあるという。
私は音を聞いて色が見えるわけではないが、音に触覚的な感じがするのはわかる。確かにイガイガした音とか、やわらかい音、というように、音というものは触覚的な面があるものだ。

こう考えると感覚というものは、もともと全体的な経験であって、互いに関連し合っているのはないか・・・・
・・・・いや、そうではなく、実は視覚も触覚も聴覚も、まったく同じものなのではないだろうか。

それを分離しているのは、私たちの心の構造がそうなっているだけだからなのではないだろうか。

実は、この世界は全感覚的なものなのであって、私たち人間が五感にあうように世界を設計しているだけなのではないか?



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2012年10月14日日曜日

外の思考

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

外の思考  ミッシェル・フーコー 著  豊崎光一 訳

「私は話す」・・・この評論はこの一言から始まる。
この「私は話す」という一文は「~を」という目的節が無い。
したがって、「私は話す」という言葉だけでは、何も言わないのと同じだ。

しかし、あえて「私は話す」と発語することは、或る空虚へと私たちを案内することになる。そこにおいては、話す主体も無くなってしまう。
言語が何かの意味の伝達ではなくて、言語そのものが生の実体として出現する。その代わりに、発語する本人(主体)は存在意味がなくなる。

主体が消滅する空虚な空間・・・ミッシェル・フーコーはそれを「外」という。


(中略)「私は話す」があたかも「私は考える」の裏側におけるように機能することである。「私は考える」は事実「私」の疑いを容れない確実性とその実在とに導いた、ところが「私は話す」の方は逆にこの実在をおし込め、拡散させ、拡散させ、消してしまって、その空虚な在処のみを出現させるのだ。

「私」という主体ーもちろんそれはデカルトが発見した近代的理性というシロモノである。ー我思う。ゆえに我ありーというアレです。

ところが、「私は話す」は、人間がいかに非理性的かということを暴露する道筋を示す。

「私は話す」が指し示す空虚は、本当は何も無い空間ではなく、見えないエネルギーに満ちた、底知れないポテンシャルに満ちた空間なのです。

それは見えないが故に恐ろしい。フーコーはこんな薄気味の悪い喩えで表現しています。


そこでは、夜になると、あらゆる眠りの彼方に、話している人の押し殺した声が、病人たちの咳が、瀕死の人たちの喘ぎが、生きることをやめることをやめようとしない者の途切れた息が響いている。

幽霊でも出てきそうですね。

さて、この評論文はモーリス・ブランショの評論なのですが、もちろんブランショはこの「外」を表現した人として紹介されています。

私もブランショの本を読んでみました。作者はたぶんわざとわかりにくくなるかのように書いています。
「謎のトマ」は書くこと、表現することを疑いつつ書いているのが良くわかります。
また「私についてこなかった男」に至っては、およそ5W1H(誰が、どこで、誰に、いつ、何を、どうした)を無視しています。誰が誰に何をしたのかまったく不明で、「彼」とか「私」とかいう登場人物も何の説明も無しに出てきて、何をしているのか全くわからない。

このような文章全体が、あの「外」をーーー恐ろしいエネルギーを備えた、マグマのような大きな塊の表面を覆っているのだ。
ブランショの小説は、文が物語りを語っているのではなく、その中心のエネルギーを指している。
例えていうなら、地球の内部にあるコアのエネルギーは、マントルを対流させ、地層の褶曲や断層や、時には火山の噴火や地震を引き起こす。ブランショの小説は、その褶曲や断層、噴火や地震なのである。


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2012年10月1日月曜日

驚異の動物感覚世界

面白い本だ。

「図解・感覚器の進化」
岩堀修明 著 講談社ブルーバックス

私は以前より、生物のよってまず感覚が選びとられ、それに適応するようにその生物は進化したという論を述べたが、そのことを実証するかのように感覚器の進化の様子をいろいろと紹介してくれます。
著者の感覚器に対する解剖学の知見は驚嘆ものです。

人間にはない、ほかの動物の感覚世界も、「え?こんなふうになっていたの?」という発見ばかりです。

たとえば「ナマズは全身で味を感じる」という一節
魚類の中でとりわけ上手に味蕾を活用しているのはコイやナマズなどである。これらの魚類は視覚のきかない濁った水の中に棲息しているため、味蕾を眼の代わりに使っているのだ。かれらの味蕾は口腔内だけでなく体表に分布している。(中略) 遠くにいる小魚の”味”が水流にのって漂ってくると、ナマズはその味を頼りに小魚を追っていくことができる。体表の味蕾により、味の濃いほうに進めばターゲットが見つかるしくみになっているのだ。その際、小魚の味が、ヒゲの味蕾と背びれ近くにある味蕾のそれぞれに到達するまでの時間差を計ることによって、小魚のいる位置を正確に割り出すことさえできる。


ナマズの”味覚”は、我々人間の聴覚を同じように外界をさぐる手立てになっているのです。

コウモリが超音波を発して暗闇を飛ぶことは良く知られているが、その性能の高さにも恐れ入る。
実験的に、室内に細い針金を張り巡らせてたくさんのショウジョウバエを放ちそこに目隠しをしたコウモリを入れると、コウモリは針金を巧みに避けて飛翔し、ショウジョウバエを捕らえる。 

ここまで性能が良いと、もはや聴覚というより視覚といったほうが良いのではないだろうか?


著者は、「あとがき」に以下のように書いています。
感覚器の研究をしていると、最後に必ずと言っていいほど突き当たる「壁」がある。それは、動物たちがその刺激をどのような感覚として感じているか、本当のところはわからないということだ。

その一方、著者は「はじめに」の中で以下のように書いています。
 これほどまでに大きな意味をもち、また興味が尽きない感覚器をよく知るために、最もよい方法は何だろうか。それは自分の手で触り、自分の眼で観察することである。私が、その体の構造を実際に観察した動物は70種類近くになる。私はそれらの動物たちの観察を、すべて”素手”でおこなってきた。その理由は、それぞれの動物の体の感触を直接、肌で感じ取りたかったのである。

動物の感覚世界を通じて世界の全体性を感じ取りたいという著者の志が伝わってきます。



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2012年9月23日日曜日

死後の世界について


しばらくこのサイトを更新していませんでしたが、
もちろん何もしていなかったわけではありません。

死後の世界について調べていました。
いろいろな本やサイトを調べていました。

死後の世界に関心を持っていると言いましたが、実は死後の世界そのものに関心があるわけではありません。

死後の世界があるか・ないかという人々の考え方に興味があるのです。

死後の世界についての人々の見解は、非常に面白いもので、死後の世界があるかという問いに対して、、大抵の人はどちらかの答えを持っています。わからないと答えるひとは少ないです。

また、あるにしてもないにしても根拠は薄弱で、どちらかといえば「あってほしい」「無いほうが良い」という希望が、ほぼそのまま「あるに違いない」「無いに決まっている」という確信になっているのです。実に不思議なことです。

私は死後の世界があるとかないとかいうことの直接の回答を求めようとは思いません。

しかし、死後の世界について語ること、死後の世界について話しあうことは、私たちの文化・人生についての枠組みを決めることであると思います。だから私はこの問題に関心があります。

つまり死後の世界について語ることは、今の私たちの人生観を語ることだろうと思うからです。

来年1月に予定されている私の個展のアーティストトークで、「死後の世界はあるか」というテーマで語ろうかと思っているくらいです。

しかし最近ある程度論点がわかってきたのですが、「この問題に関わることはあまり生産的でないのではないか」と思い始めてきました。

やはりリアルな生について語ったほうが、説得力があるし臨場感が沸きます。

死後の世界について語ることは、盛り上がるし、ある種の議論の活性材料になるとは思うのですが、新しい価値観を提示することにはなりそうもありません。

なぜかというと、死後の世界があると思っているひとは、それを前提として生きており、無いと思っている人は、やはりそれを前提に生きているからです。

両者の価値観は基本的に変わることがありませんし、お互いを理解する必要もありません。

死後の世界があると思う人は、現世は修行の場であり、魂を磨くところであると考えてその日その日を精一杯生きています。
一方無いと思っている人は、この現世しかないのだから、現在の価値を最大限にしようとして、今この時を精一杯生きています。どちらも高いモラルがあるのです。

自己完結している問題に何か問題提起するならば別の視点からの問題提起が必要になります。
それはなんだろうかと、つらつら考えている今日このごろです。


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2012年8月19日日曜日

形は力を持つ




下田の海岸で丸い石を拾った。

丸い?・・・いや決して丸くはない。これらの石を全部をひっくるめて「丸い」ということは間違いだ。
それぞれ個性的な美しい形をしている。
手触りも全然違う。

これらの美しい石の形はどのようにして決まるのだろう?

均一な内部構造を持った材料の角が削られていっただけではあるまい。

外側からの研磨しようとする力と、内側の石の組成のバランスのもとに、必然性をもって作られたものに違いない。

力は形を持ち、形は力を持っている。

それぞれ偶然ではなく、必然的に、この形になっている。母石から離れて波に洗われ始めた時から、この形になるべくしてなったのだ。








石を握りしめると、この力を感じ取ることができる。
だから私は手元に置いて、時々握りしめてその力を味わっている。


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2012年7月9日月曜日

感覚は解放されなければならない

前にも書いたが、私は感覚や認識が自分の肉体の中に制限されていることについてひどく不自由を感じています。
本来そうでなかった筈だという思いが強くしています。


だから本来私は「全て」なのであって、宇宙の全ての感覚をもっていたのだが、それが狭い範囲に抑圧されており、私が持っているような意識は、その抑圧の結果出来たものではないでしょうか。


太古の人々は神話による感覚的な自然解釈によってその抑圧を緩和してきたのですが
現代のように科学が発達した時代では、科学技術がそれを分断しています。


その代わり、地球規模で広がる技術文明をつくりました。
宇宙規模、地球規模の感覚を、この技術文明にゆだねているようなところがあります。


これは決して健全とはいえないと思います。


感覚は解放されなければならない。・・・これは、実現不可能な無理難題ではなく、必然的にやらなければならないと思うのです。




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2012年7月2日月曜日

手を触れた

我が故郷、飯能に行ってきた。


親父の菜園の収穫を手伝った。


土、野菜、虫、などに手を触れた。

















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私の聖地



飯能の矢颪(やおろし)というところにある入間川の川沿いに凝灰岩層が露出しているところがあります。

凝灰岩とは、火山灰で出来た岩ですが、この矢颪凝灰岩層は、何の火山噴火が原因で出来たのかいまだにわかっていません。凝灰岩層がこれほど大きく露出しているのはこのあたりでここだけです。

私の子供のころは、ここでよく遊びました。


岩が白いので一見、異世界の風景のように感じます。

そして地層とは、過去につながる場所です。


時空を超えた場所・異世界のように感じるところ・・・そのような場所は聖地と言われます。


ここ、矢颪凝灰岩層は、私にとっての聖地とも言えるところです。

栄養がないせいか、草が少ないです。

ボロボロとこぼれる


水溜りにアメンボが沢山いました。

何層にもなっています。

河野水が流れて出来た穴。石がころがって削れたのでしょうか

川を挟んで立つ新興住宅

関東ローム層の上に積もっています。




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2012年7月1日日曜日

私には根本的な疑問がある





私には根本的な疑問があるのです。


奇妙に聞こえると思いますが、以下のような疑問です。






どうして、私は私であって、あなたではないのか?


どうして私はここにいて、あそこにはいないのか?


どうしてここから、あそこに移動するのに時間がかかるのか?






私というものが、このちいさな肉体に限定されているということが
どうにも疑問なのです。


実は私が私であるということは、何の必然性もないのであって
私は、あなたでも、ここでも、あそこでもよかったのだが
たまたまここにわたしがいるということに過ぎない。


元々、私(あるいはあなた、あるいはここ、あるいはあそこ)は、
あらゆるところに在ったのだが
どういうわけかここに(この肉体に)収束してしまい
残念ながら私の肉体のなかにおさまってしまっている
というわけです。


だから本来私はすべてなのです。




たまたま、この肉体に居るだけのこと
そしてそれによって、
外界を検出する範囲は、わたしの肉体のもっている感覚器によって限定されてしまっています。


感覚は、すべての場所にある。すべての場所、あらゆることに万遍なくあるのです。


ところが不幸なことに、私の中に、私の肉体の中に押し込められている、
抑圧されているのです。
そしてその抑圧された感覚を感じ取ることができるのは、
わたしの哀れな狭い意識であるというわけです。


だから私は、私の感覚は、普遍的な感覚に解放されなければならないのです。




もっともらしい理屈を言ったり、現代芸術ととなえて妙なことをするのも
とどのつまり、このことを実現したいためなのです。



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2012年6月27日水曜日

感覚の分化と搾取の歴史

科学がいう宇宙の始まりは
最初にビッグバンがあって
しばらくは、あらゆるものがぎっしりと詰まっていて、
あるとき急速に膨らんで、空間が澄み渡り、
光が動けるようになり、現在の宇宙の姿になっていった。


ものすごく簡単に言えばそういうことですけれども
それは現代の宇宙論がとなえる物理的な物語です。




私は宇宙の歴史を感覚の分化の歴史と捉えます。


最初に信じられないくらいの密度の感覚があって(原感覚)
やがて熱や圧力や広さの感覚に分化してきたわけです。
重力感覚や電磁気感覚も生じてきました。


さて、画期的な出来事は、生命の誕生です。


初めて感覚を体現するシステムが出来上がったのです。


そしてまた長い歳月が流れて生命システムの中に
もう一つシステムができました。意識です。
人間の誕生は、意識の誕生でした。
意識は、感覚の現前をまた再現前するというもので
その前にあったシステムを相対的に見ることができるので
自分の身体に対して、「私」と名付けることができたのです。
自意識をつくることができたのです。


そしてさらに最近もう一つシステムが出来ました。
社会システムです。
いまや高度に発達した資本主義システムは、自律した生命のようなものです。
このシステムに自意識がある、というとSF的な話しになるのですが
このシステムは内部の経済活動によって個々の感覚を表現します。


さて、生命システム、意識システム、社会システムと、
感覚は、”折りたたまれて”きました。
これは土地の私有制と同じようなものです。
本来だれのものでもないはずのものを、
あたかも自分のものであるかのようにしているわけです。


遍在しているはずの感覚が、閉じ込められ、
隔離されてきたのです。


感覚は意識システムから解放されるべきであり、
また社会システムからも解放されるべきなのです。


いまや我々は社会システムによって取り囲まれているので、
感覚を社会に譲り渡している状況です。
自分の存在感覚が希薄になっています。
これを存在論的搾取といいます。


奪われた感覚をとりもどし、
折りたたまれた感覚をバラバラに撒き散らさなければなりません。


意識や社会は必然的に生まれたものですが、
それに感覚を預けてしまうのは間違いで、
今は過渡的な時期にあると思うのです。




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2012年6月24日日曜日

たぶんあと100年で劇的な変化が起こるだろう

たぶんあと100年で劇的な変化が起こるだろう。




人類は、自分たちが漆黒の虚空の中の孤独な存在であることに気づくだろう。


そして、自分たちの存在している意味を知るだろう。


全てのものが同じであることを知るだろう。
生と死も同じものであることを知るだろう。


本来的でない時代は終わって、本当の時代が始まるだろう。


近代という時代は狂気の時代だった。
この100年間は特にひどかった。
いまが一番ひどい時で、このような時代はあと100年は続く。
それが終わって本来あるべき姿に戻るだろう。


しかし太古の昔と違って、迷信にしばられることのない、
科学的に透徹した目が開けている
たくましい、しっかりとした時代だろう。


その時代は長く続くだろう。
1万年以上かもしれない。


しかし、そしていつの日か、終わることだろう。


人類は、終わりを自ら引き受けるだろう。


その終わり方とは、つぎの2つのうちのどちらかだろう。


別のものに進化するのか、
それとも、ただ絶えるだけなのか。


いづれにしても人類は、その変化を
必然的なものとして受け入れ
ヒトが生きていた時代は終わるだろう。


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2012年6月15日金曜日

ゲシュテルとの四つの道

私がゲシュテルといっているのは、ハイデガーが「技術論」の中で言っている、現代の技術文明全体のことです。

それは、何かのために役立つこと、を推進力として進んでいる生き物のようなものです。たどり着くところは、お金のためということになるのですが、それだけでは何ももたらさない、ニヒリズムを生産するような装置です。

何かの役に立つということは「用象(ようしょう)」ともいいますが、ゲシュテルは「用象の体系」ともいうことができるでしょう。

私たちは、このゲシュテルに取り囲まれて生活しています。それどころか、心の底までゲシュテルに浸っているといっても良いでしょう。

さて、ゲシュテルには良い面と悪い面があります。
良い面は、医学の発達によって病気を克服したり、生活を便利にしたり、産業を振興したりすることです。また不合理な迷信から人間を解放し、明快な近代性をもたらすということです。
悪い面は、自然界から人間を分離し、精神のよりどころを不安定にさせ、人間を心底から管理することです。また、破壊的なリスクを伴います。核戦争の脅威、環境破壊、原発事故を引き起こすリスクがあります。

このゲシュテルに対峙するには、4つのやり方があります。


1、不穏な道 
不穏な道は、はっきりとゲシュテルを否定する道です。原始的ともいえる死に物狂いの反撃で、ゲシュテルの破壊を試みます。さまざまな人がいますが、主な破壊者は岡本太郎、バタイユ、クロソウスキー、埴谷雄高などです。
生身の人間の感覚でぶつかり、自分が死ぬか、相手が壊れるかというところで勝負します。



2、死の道
これは絶望的なあり方ではありません。
死後の世界について語るということです。ゲシュテルは死には付いていけないので、死をもってゲシュテルから離れることができます。死後の世界が存在して、この世は死後の世界のほうが本質的であって、この世はその本来的世界の反映にすぎないのであれば、ゲシュテルもなんら本質的でないことになります。


3、無の道
無の道は、毛利衛さんが宇宙から地球を見たときの達観にも似ています。すなわち「地球も人類も、あってもなくても同じこと」「なのにある。あるようにしてある。」
この人間としての視点を離れたところから出発しているところにこの道の特徴があります。
「すべては同じもの、隔てるものは何もない」という荘子や老子の思想にも通じるものです。
つまり、ゲシュテルもあるようにしてあるもののひとつであり、なんら特別なものではないのです。



4、知恵の道
知恵の道は、ゲシュテルが活動している現場に足を運び、ゲシュテルの作用を良く見て、知ることです。工場や農作業の現場、清掃センターや埋め立て処分場などを見て、ゲシュテルの活動の様子を五感に叩き込むことです。ゲシュテルの働きを知ることによってゲシュテルが対峙している相手(自然)を、人間対自然ではなくゲシュテル対自然として認識できるようになります。


・・・・・・・これらのことを公園の池の近くで考えていると、ウシガエルが「ぐううぅぅ」と鳴きました。
私はハッとしました。

しかし、何にハッとしたのか、わかりませんでした。




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2012年5月31日木曜日

私は何を目指しているのか



誰でもそうだろうが、私も10代の時期は世の中になじめなくて困ったものでした。
そういう時期は普通は10代で収まるのだが、私の場合は、
20代、30代、そして40代はじめになってもそうでした。


うまく説明できないけれど
世の中が、金融や株式や軍事的なバランスや世論やらなにやらのわけの分からないものによって動かされていて
一体自分がどのようにそこに関わったらよいのか、分かりませんでした。今までもどこまで分かっているのか怪しいものですが。


芥川龍之介の小説で「歯車」という話があります。
主人公は頭痛とともに半透明の歯車がぐるぐる回る幻視に悩まされるという話です。
この歯車のように、現代社会は、得たいのしれないわけのわからない理由で動いていて
私の意志とは関係なく私を巻き込んでいく。
それどころか、この歯車は私の心の内部にもあって、こころの中から支配を作り出しています。



長い間かけて私は、この「歯車」の正体を明らかにしようと勤めました。


20代を過ごした時期は、おりしも、バブルの時代でした。
今でも語り草の狂騒の時代。しかし、空虚で何か物足りない、いや決定的に何かが足りないと思っていました。




光明を与えてくれたのはミッシェル・フーコーの「監獄の誕生」でした。


フーコーの精緻な権力分析は、「歯車」が作られていく過程、そして「歯車」が内面化していく過程を
つぶさに説明していました。
僕は、この現代社会で生きているうえでの「うそ臭さ」を感じていました。
フーコーのおかげで、今ではその「うそ臭さ」が生じるメカニズムを知ることができました。


またアメリカインディアンやアボリジニらの自然との関わり方を知りました。
「歯車」が存在しない社会がかつてはあって
それは、神話や、儀式、瞑想などの方法で、社会的機能と人間の精神が一体となって営まれていたのです。


そのようないくつかの示唆的な方法論をへて、私はひとつの命題を立てました。
「自然-身体-精神-社会」をつなぐということです。
私たちは、自然や自分の身体から、決定的に離れているということが、問題なのだと悟りました。
そのことの統一性を現代社会において取り戻したいと考えたのです。




そんなことは可能でしょうか?
やりはじめたとき(つまりこのメッセージサイトを始めたころ)は、手がかりが少なすぎて、どうなるのかわかりませんでした。
しかし、ここ数年の探求を経て、できるんじゃないか、できそうだ、という感触を得ています。


部分的にはつながってきていますが、全体的なつながりがまだまだです。
思想的に完成するということは、断片的に説明できることではなく
全てを一貫して示すことができなければなりません。


目下の課題は、それらを感覚的に統合するということです。
身体-自然-社会を、一貫した感覚で表現すること、ということが
まだできていません。


安易に完成するとも思えませんが、あと数年のうちに、全体像を示すことができると思います。
芸術としていうならば、そういうことが作品で表現できているということになります。
たぶんそれは可能だろうと思っています。

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2012年5月20日日曜日

「宇宙の渚」を見て

今日放送の、NHK総合テレビ「宇宙の渚 第2集」を見た。今日はオーロラの話でした。


都市の夜景とオーロラを同じ画面に捉えた映像は非常に興味深いものでした。




まさに現代文明の姿である夜景と、自然の代表であるオーロラとの対峙です。


以前から言うように、現代文明(ハイデガーのいうゲシュテル)は一つの生物であり、この生物は、地球に生息する最大の生き物です。




地上に這いつくばるゲシュテルと、オーロラの2ショットは、圧巻の映像でした。




番組では、巨大オーロラが引き起こす誘導電流が、変電所を破壊し、大規模な停電がおこるという話を紹介していました。
19世紀に起こった、キューバやハワイでも観測されたという巨大オーロラが今発生したとすれば、現代文明の大半の変電所は破壊され、復旧に4年から10年はかかると言います。
電気供給線はゲシュテルの神経系か、血管のようなものです。
それに対してオーロラが壊滅的な影響を与え得るというのは、ゲシュテルと自然の、極めて直接的な関係を示すものです。


地上にへたばって生息しているゲシュテルにしてみれば、突然巨大な誘導電流を流されて痺れてしまい、しばらく気絶しているような状態です。







宇宙の渚HP ↓ 画像もそこから転載
http://www.nhk.or.jp/space/nagisa/


地球に張り付いて生息するゲシュテルの画像。


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2012年5月14日月曜日

ユニバソロジについて

NASA宇宙飛行士として初めて宇宙へ行った日本人の
毛利衛さんが書いた「宇宙から学ぶ  ユニバソロジのすすめ」という本を読んだ。


宇宙から学ぶ――ユニバソロジのすすめ (岩波新書)


わかりやすい文体で書かれた本だが、毛利さんが言おうとしている「ユニバソロジ」の内容は非常に難しく感じた。


それは、たぶん、宇宙に行った毛利さんが実体験として感じたことだからだろう。


例えば、以下のような印象的な記述がある
スペースシャトルにはエアロックという船外活動のために出入りする設備がある。そこの壁は内張りがなく鉄板がむき出しになっている。


「わたしは何気なく、その鉄板の壁をぺたっと手でさわりました。すると驚いたことに、すごく冷たいのです。そのあまりの冷たさに、私は「ああ、この鉄板一枚を隔てて、外はマイナス150度の宇宙空間なんだ。そうか、この鉄板の向こうは死の世界なんだ」と感じました。


その一方、地球や人類はなんら特別な存在ではない、と感じたという。「あるようにしてある」そして、地球や人類が居なかったとしても何の問題もない。・・・・その達観した視点がすぐさま了解できたということです。


そのような普遍的な考えかた。
毛利さんは地球に帰ってきてからそれにふさわしい言葉を捜し、ふと浮かんだのはuniverse(宇宙・万物・普遍)に学問を表すlogyをつけた、ユニバソロジという言葉です。


ユニバソロジとは普遍的、多面的、全体的なものの見方である。


それは普遍的な視点である。
人類がいなくても地球や宇宙はある。また人類のような生命も宇宙のあちこちに存在しているかもしれない。地球も生命も人類もなんら特別な存在ではない。


そして、「生き延びる」ということが非常に重要だという。これは、生命種はネットワークをつくり、種として生き延びる知恵を伝えあう能力を持っているということだという。




毛利さんのいうユニバソロジは、荘子のいう万物斉同に非常に近いと思う。
万物斉同とは、全てのものは同じ価値を持ち、全ては繋がっていて同一の現象だということだ。
毛利さんは、宇宙へ行った実体験をもとに語っているので、その解釈はとても現代的なものになっている。






ユニバソロジの考え方はこっちのリンク記事が印象深かった。一読の価値あり。


http://www.natureinterface.com/j/ni13/P006-P009/








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2012年4月29日日曜日

存在論的搾取の解決法

前回述べた「存在論的搾取」とはどういうことか、今一度説明することにしましょう。

--自分が存在しているという確信。
--自然または宇宙のなかでの自分の位置を見極めること
ということが奪われてしまっているということ。
です。

なぜならば、地球全体に広がった現代の技術文明の中で私たちは生活しているので、
自然に直接接して生活しているわけではないからです。

私たちの生活は、自然に振り回される不安定さは緩和されていますが
自然の中における自分自身の位置を見失っています。

さて、ハイデガーは、この現代の技術文明のことをゲシュテル(Ge-stell)と名付けました。
正しく言えば、ゲシュテルとは、自然を資源として用立てるための機能的本質のことですが。


ゲシュテルに、私たちの存在そのものを奪われてしまっている状況を
存在論的搾取 と言います。

奪われてしまった 存在 をどうやって取り戻せばよいでしょうか。

いくつか方法があるのですが

1、自分が地球的規模の身体を持つこと。
これは、大洋をヨットで横断したり、8000メートル級の山に何度も登ったり、密林の中に分け入ったりして、この地球という惑星を自分の身体で感じ取れるようにすることです。
このようなことを成し遂げることは偉大なことですが、万人が出来るわけではありません。こういうことが可能な人は極く少数です。

2、大昔の人の自然感を復活させること
例えば日本に古くからある村-里山-霊山の関係、ヒト-獣(ケモノ)-自然神 という自然感を
復活させることです。
アメリカ原住民やオーストラリア原住民にも、そのよう伝統が細々と生き続けています。

しかし現代の資本主義社会の中で、そのような自然観を真の意味で復活させることは
不可能といってもいいでしょう。

そして、第3の方法が出てきます。

3、惑星規模の現代の技術文明(ゲシュテル)を、一種の生命体と捉え、そのゲシュテルの感覚を仮想することです。

わかりにくいと思いますが、考えてみてください。
いまや宇宙ステーションからの鮮明な映像が家庭に届く時代です。
オーロラや大洋や雲の壮大な景色とともに
地球の夜の側に息づく夜景の鮮やかさも同時に見ることができるのです。
それら地球に広がった技術文明(ゲシュテル)は地球の表面に巣食う一種の生き物であると考えても、さほど無理ないことではないでしょうか。

この生き物は、地球にべったりとくっついて生きており、すぐ頭上は宇宙であり、すぐ下側は地球という名の岩の塊です。

もし、ゲシュテルが、生物であると、すれば、ゲシュテルは明確に自分の位置をわきまえているはずです。
ゲシュテルの存在感覚は、地球に巣食って、地球とともに宇宙を旅している感覚です。
私たちが働いたり、消費したりする活動は、ゲシュテルにとっては身体の働き、内臓の働きに他なりません。
私たちの生活や生命は、ゲシュテルにとってはそのような意味があり、自分の活動の意義をゲシュテルに対照させること。そして
このような感覚に、私たちの感覚を接続させる必要があるのです。


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2012年4月26日木曜日

存在論的搾取

しばらく更新をしていなかったが、
何もしていなかったわけではありません。

ハイデガーの技術論を読み終え、彼のいう
「技術の本質と芸術の本質は同じ」、ということについて考えていました。



私は、ゲシュテル(この地球全体に広がった技術文明)と我々人間との関係を、整理しようとしていました。




それには、ゲシュテルを生命・生物と考える必要があると思いました。
奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、現代の技術文明をある一つの生命体と考えると、都合が良いことに気がついたのです。


ゲシュテルは地表にへたばって、地中からエネルギーを吸い、様々な生物と共生しています。主な共生生物は私たち人間ですが、農業や養殖漁業など、数限りない生物と共生しています。


そして、それ(ゲシュテル)は地表と地下と大洋に直接接しながら生きています。


それ(ゲシュテル)は、惑星的規模、宇宙的規模で生きている。身体もそうだし、認識もそうだ。
それの空間感覚、時間感覚は、人間とは比べものにならない。


それの周囲には宇宙空間があり、すぐ下には丸い地表がある。それは、たった一人で宇宙空間に対峙している実存的な存在です。




さて、私たちはゲシュテルという生物の中で生きている、いわば細胞です。私たちはゲシュテルに生を委ねている。したがって自分が何者なのかということを自然の中で位置づける必要がないわけです。
自然の中での位置づけは、ゲジュテルに取り上げられています。




これは、存在論的な搾取であり、


私たちは、存在論的貧困 の状態にあります。


いまやゲジュテルは存在論を独占しているわけです。


ではどうすれば良いのか。


次回以降にそれを考えていきましょう。




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