2011年5月30日月曜日

自己啓発は害悪である。

自己啓発本が大変なブームであるようだ。
私も2,3手に取ることがある。


殆どのものは
自分の行動のマネジメントには誠に結構な本である。
実に役に立つ。


でも自己啓発とは意識して距離をもっていないと、大変なことになってしまう。


そうやって、「役に立つ自分」を一所懸命作っていると、
役に立たないもう一人の自分が、むくむく起き出して言い始めるのだ。


「何なんだこれは。これをやってどうなるんだ。これはお前が本当にやりたかったことか。」


分別めいた、小ざかしい新聞の社説みたいことで自分を覆ってどうするというのか。


心の底から、肉体から、肉体の裏側の川のようなところから、流れ出てくるものを感じているのなら、生活上の行動規範や、社会的な成功や、人間関係をスムースにする方法など
一体、なんの意味があるというのか。


その意味で自己啓発というものは、害悪になりこそすれ、益になるものではない。


自己啓発とは、本当の自分から目を背けさせる装置なのだ。
人間の心の底は、生産的でも平和的でもない。


「役に立つ自分」をつくればつくるほど、
もうひとりの自分は、暗闇に押し込められ
表に出ないようになり、
食事も与えられず、
かさかさに乾いて
いつか死んでしまう。


人間は無条件だ。
何もしていなくても、なんの価値もなくても、
何も生産していなくても、ただそこにある。生きて動いている。
よくも悪くもなく、他と変わらない。



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2011年5月28日土曜日

毒抜きニーチェ

「超訳 ニーチェの言葉」が100万部のベストセラーになっているそうだ。


私も書店で立ち読みしてみたが、驚いた。
なんとニーチェが大変なモラリストになっているではないか。
ニーチェが倫理家になってしまい、道徳を語っている。


毒を抜かれたニーチェ。
近所の物知りのおじさんみたいに語っている。


ニーチェはそんな小市民的な男ではない。
ニーチェは殺人を是とした男だ。


無差別殺人でさえ、
それによって己が生きる喜びを得られるとしたら
それはやるべきであると言いかねない男である。


血なまぐさく、誇大妄想的で、狂気と快楽と
死と絶望と、性欲と破壊欲と、孤独と情熱と
一切がまぜこぜになっているニーチェの恐るべきカオス。


ニーチェほど危険な思想家はいないのだ。
だからこそ魅力があり、いまだに青白い強烈な光を放つ思想家なのである。

 私の愛読書「ツァラトゥストラ」より、いくつか引用しよう。
(手塚富雄 訳)


かつて君はさまざまの情熱をもち、それを悪と呼んだ。しかし今は、君はそれらを徳と公言していいのだ。  ――喜悦と情熱






かれの魂が血を欲したのだ。強奪を欲したのではない。かれは匕首の幸福に渇していたのだ。―― 青白き犯罪者






善い者たちも悪い者たちも、すべての者が毒を飲むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。善い者たちも悪い者たちも、すべての者がおのれを失うところ、万人の緩慢な自殺が----「生」と呼ばれるところ、それが国家だ。  ――新しい偶像


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2011年5月27日金曜日

メカニックなものとしての芸術 その2

価値のある芸術作品は、何か別のものにつながっている。
そこにある素材は、全く別のものに変容する。
全く別の領域につながる。

この「別の何かへの変容」がその作品にこの上ない強さを与える。
その強さは、芸術家の本人の強さである。
しかしその芸術家が、他の人に比べて特に生きる力が強いというわけではない。
芸術家の生が、もっとも正確かつ良いやり方で表現されているということである。

作品がその芸術家と不可分になっており、
その芸術家にしかできない表現ができている。

個性が、もっとも良い方法で表現されている。
いってみれば、自己実現が、技となっている。

野球選手のイチローはもっとも自分に相応しいプレースタイルを確立している。
すなわち野球による自己表現、自己実現ができている。
その表現は、極めて個性的であるし、イチローにしかできないものである。

技となった行為の、ひとつひとつメカニックに説明できる。
イチローは、自分のプレーのひとつひとつを細かく説明することができる。
芸術家も、素材の選び方、絵の具の練り方、筆の運び方などを細かく説明することができる。

しかし、出来上がった全体像は、全体が一つになってしまって、不可分のものとなり、全く別の領域につながってしまう。
説明は不可能だ。これが芸術の謎である。



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2011年5月23日月曜日

メカニックなものとしての芸術

身体の機能や動きは、基本的にメカニックなもの(力学的、機械的なもの、つまり説明できるもの)として理解可能だ。近代医学はそのように発展してきた。


実は人の心理もそうである。
複雑と思える人の心も、外から分からないだけで、心の内部では快楽、衝動、葛藤、社会欲求などの要因が働いていて、個人は結果としてその場に即した行動をとるのみである。
心の内部まで深く追求した場合に、説明できない行動をとることはないと言っていいだろう。
本人には説明つかないことであっても、意識の奥にある心理までその力学を広げていくと、人間の心理はメカニックなものとして説明可能だ。


自分を律することができる人格を備えている人は、このような心理のメカニックが良く分かった人である。


たとえ、たましいというものを持ち出す場合であっても、霊には霊の作用があるのであるから、それも含めて力学的な体系が出来ていなければならない筈である。


メカニックな働きは、芸術作品にも当てはまる。


あらかじめ全ての芸術作品のパターンは決まっていて、創作される現場では、心理、身体、社会環境、状況、そして使われる素材によって、どのような作品が顕在化するかというだけの問題なのではあるまいか。


芸術作品は、まったくゼロから、作られるわけではなく、どのようなものをどのように出してくるかという問題なのではあるまいか。


構造主義が明らかにしたところによると、人類の知や生活様式はすでに決まっていて、それぞれの文化によって何が顕在化されるかが決まるというが、それと同じことなのではないだろうか。


戦後、絵画がキャンパスに載った絵の具であると定義されたときから、作品は科学的な解明ができると信じていたような論があった。
フォーマリズムと言われる一連の論調を思い出す方もあるだろう。


フォーマリズムの興味範囲は、支持体や画面などの効果であったが、現在の芸術作品をめぐるメカニズムは、フォーマリズムとは違った、もっと大きな意味合いにおいて、働いている。
このメッセージサイトのテーマでもある「自然-精神-身体-社会をつなぐ」ということも、ひとつのメカニックな働きである。


このようにいうと、あたかも私は芸術家の熱情や、言葉にならぬ想いや、世界に対する深い愛について冷淡であるような印象を与えるかもしれない。


しかしその熱情や愛が、芸術家本人の固有のものでありその人しか持ち得ないものか、それとも誰でも持ちうる普遍的なものかというと、もちろん後者のほうだろう。


つまり芸術家が普遍性に対してオープンであるならば、もっとも最適化されたメカニズムをもった方法を選択するであろう。もっとも効率のよい力学的な方法を選ぶであろう。


もっとも優れた芸術家とは、その人がいなくても作品が成り立つような人のことだろう。
つまり、芸術家というものは既にいなくて、もっとも最適化された、普遍的な方法のみが生き残るであろう。


そのような状況が一般化すれば、芸術は、真の意味でその役割を終えた状態と言える。



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2011年5月22日日曜日

雨が写った・・・

昼過ぎに突然雨になった。




フラッシュを焚いて撮ったら、落下する雨粒が写っていた。






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小淵沢で。

小淵沢にいってきました。


目的は小淵沢にあるGallery Amano


天野幹夫さんの個展を見に行くことだったが
一方で、私は小淵沢の美しい自然にも心も奪われた。


よく澄んだ空気、ひばりの鳴き声、森の匂い・・・
















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2011年5月16日月曜日

亀であるとは、どういうことか


曇り空にもかかわらず
亀が岩の上で日向ぼっこをしていた。(画像の中央に小さく写っています)


石や水とともに、体温が上がるのを待っていた。


「亀である」とはどういうことなのか。
亀は、石の上に乗って、何を感じているであろうか?
それは、石や水であるということと同じなのか?




「生物からみた世界」という本の冒頭にダニの生活について書いてある。


ダニは手近な灌木にのぼり、下を動物が通るのを待っている。
下を動物が通ると、酪酸の匂いがするので、直ちに落下する。
そして動物の皮膚にかじりつき、血液をたらふく飲み、その後、地面に落ちて卵を産み、死ぬ。


ダニは灌木の枝で18年間待つことができるという。


ダニには眼がなく、味覚もない。
彼女(この「待ち伏せ」をするのはメスだけだそうだ)は我々人間の想像を絶する
感覚世界に住んでいる。


ダニの生活が示唆するのは、生物種と同じ数だけ、感覚世界があるということである。
私たち人間は、感覚世界のうちのごく一部しか感知していない。




これに関してもう2つの示唆的な事例がある。


(1)神話においては人間が動物と話をしたり、結婚したり、また人間が動物に変化したりする。
動物のみならず、石や木になったりすることもある。
神話が実効的な力をもっていた太古には、自然の力が圧倒的であり、人間は自然の片隅で生きていた。妖怪や精霊などの異界の生き物が身近にいると信じられていた。


(2)いわゆる神秘体験を経験した人に共通して言えるのは、「すべてのものが境目なく同じ」と考えられることである。そして、自分が床になり、動物になり、工事をしている人のツルハシの先になったり、あらゆるものになる。(私はこういう体験は、実は手順を踏めば誰でも経験できるものではないかと想像している。)


感覚世界の全体をとらえようとすることは、私がつくろうとしている新しいパラダイムにおいて、非常に重要なことだ。
いまや自然の理解は科学的理解が主流となっており、神話や神秘が入る余地がなくなっている。
しかしだからこそ、生物世界の全感覚を想定することが可能となった。


さて、亀であるとはどういうことか。
もちろん亀本人でなければわからないだろう。しかし亀であることを想定した世界を作ることができるのは、人間の稀有な能力だと思う。


(「生物からみた世界」は古い本にもかかわらず、内容の興味深さから、さまざまな人が
Webサイトを書いているので検索してみてほしい。もちろん読書もお勧めする。)



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2011年5月15日日曜日

身体を動かして考えること

身体を動かして考えること。
それは、私にとって制作活動と同じように(あるいはそれ以上に)重要なことである。


単に公園に行って走ったり屈伸運動などをするだけではない。


肉体を動かして、その感覚を確かめること。
血液の循環や呼吸の活動を、意識に上るようにすること。
普段意識することのない横隔膜筋や肋間筋の動きを確かに感じ取ることである。


しばしば、私は、裸足になって公園の緑地を走る。
草と土の感触がダイレクトに足の裏に伝わって、新鮮な感じがする。
そして、桜の木の幹に寝たり、石の上に寝たりしてゴツゴツした感じを確かめる。
身体を撫でる空気の流れを感じ取る。


身体内部の感覚と、周囲の外的な感覚を同時に感じ取ることによって、身体の内部と、外側の自然現象を、同じレベルで扱うようになる。


太古の人々は、外的な世界を人間の身体になぞらえてきた。
川の流れを血液の流れに対応させたり、
嘔吐、汗、唾液、射精など身体から液が出る現象を温泉や火山噴火になぞらえてきた。


肉体の内部の現象も、身体の外側の自然現象も
私の意識の芯から見れば等しい距離であり、同じレベルで起こっている出来事である。
ものごとはなるべくシンプルに考えることが重要である。
このシンプルさが、次の時代の新たな社会をつくる鍵であると思う。



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2011年5月14日土曜日

心身と自然と社会


私たちの身体と精神は2つの種類のものに接続している。




ひとつは、風の動き、川の流れ、雨、水溜り、植物の成長・・・などなどのあらゆる自然の現象。
私たちの身体や生理は、これらの出来事と地続きであり、同じ種類のものである。


もうひとつは、人工的なもの、インターネットや、株価、産業、交通網、法律の規制・・・などなどのあらゆる種類の社会的なものである。




さて現在のところ、私たちの心身の支配率は、人工的なもののほうが大きいように思う。大きくバランスを欠いている状態だ。
社会のありかた自体が、そしてそれを構成している私たちの心身のあり方が、極めて歪んだものとなっている。




かといって狩猟採集をしていた太古に戻ることはできないので、私たちは、新たな社会像・新たな心身のあり方を探求し、つくっていく必要がある。


第1段階は、心身を自然に開放する技を持つこと。これは個人的な段階である。


第2段階はそれが産業や社会システムに組み込まれるようにすること。しかし、このことについての具体的アイデアはまだ出ていないが、私は芸術などの文化的な取り組みはその一つとなりうると考えています。


 美しい季節になりました。。・・・・



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背面世界論

自然--身体--精神 のつながりを考える上で、
無視することができない考えがある。
それは、
精神の源は、たましいである、という考えであり、
精神は現世のものではなく、背面世界(霊界)に起源を持っているという
考えである。


この考えには、大きくわけて2通りあって、
ひとつは、万物(自然)と身体は現世のものであり、
精神のみが、背面世界とつながっているという考え。


もうひとつは、この世のすべては背面世界の影響のもとに動いているという考え。
水の表面の動きは、水面下の水の流れに影響を受けているようなものだ。


私はこのような考えを決して否定するものではない。


しかし、どうしてもわからないことがある。このような背面世界が、どこにあるのか?
このモデルが仕上がらないのは、この理由があるからにほかならない。
いったいどこに、どのようにあると考えるべきなのか?


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2011年5月8日日曜日

自然-身体-精神-社会

前回にも書いたことだが、
いかに、自然と社会を直結させるか、ということが重要なのだ。
図式的に言えば、以下のようになる。


自然---社会

ところが社会は人間が作っているわけだし、
自然も認識者がいなければ存在しないのと同じことだ。


すなわち
自然---人間---社会

ということになる。


ところで人間は 身体と精神であるから
自然---身体---精神---社会


というわけである。


ところが、現代人の悲劇は、精神が社会に支配されており
身体とのつながりを軽視しがちということだ。
ましてや、自然と身体とのつながりは想像すらできないのではないか。

つまり、以下のようになっている。

自然 - l - 身体 - l -  精神---社会

 
これでは、風とおしが悪い、不健康な世界である。
 
問題は、
自然---身体---精神
のところの効率をいかに上げるかということである。
 
ところが考えてみれば、身体は、数十億年の進化の結果作られたものであり
私たちの身体は自然そのものといえるので、効率も何もそもそも一体のものである。
また、精神は身体から多大な影響を受けているので、身体と精神のつながりなどということは、いまさらいうまでもないことだ。
 
こういう当たり前のことをあえて言わなければならない、言い続けなければならないということは、悲劇的な事態である。
 
この病理はどこから生じたのだろうか?
 
やはり近代主義がすべてを歪めたのだろう。
 
特に、自然を資源を搾取する工場とみなしたことと、身体を機械とみなしたことである。
科学や産業の興隆は、良いことを沢山もたらしたのであるが、残念ながら自然と身体との関係を断絶してしまった。
今、あえてそれらを取り戻す必要があるのである。
芸術は、それらに対する一種の処方箋であるが、有効な手段なのか、他にも良い方法があるのか、活動しながら検証しているところだ。


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2011年5月5日木曜日

私はひとつの透明なメディアになり・・・

大地、海流、気候、消化、排泄、肉体の働き、心の働き、
そして、感情の動き、会話、観察、認識、消費、思考、感覚、肩こり、
音楽を聴く、テレビを見る、ビールを飲む
などのこと


できれば私は
私というものがなくなり、
ひとつの透明なメディアになり、
ひとつのメカニックな体系、
ひとつのシステム
ひとつの循環するルート


に成りきって


オリジンから吹き出してくるものを
ほとんどそのまま
アウトプットにしたいと思う。


地下から温泉が吹き出てくるのと同じだ。


結局自分自身が孤立した肉体を持ち、自律した精神を有するがゆえに
循環がそのなかに限定されているかのような誤解をうけてしまう。


しかしそうではない、
本当はとても単純なことで
私はできれば何もしないで、ただそれらのエネルギーを
できるだけ効率よく流しておくだけのものになりたいと思うのだ。
つまりできるだけ太い水道管。
できるだけ幅の広い川、
できうるならば私のような存在などなくて
自然と社会が直結しているほうがいい。
私の存在そのものが邪魔であるくらいのほうが望ましい。



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2011年5月4日水曜日

私の心の働きは、何か大きなものによって動かされており






わが故郷、埼玉県飯能市に行ってきた。
群生する植物、草いきれ、分厚い苔、土塊などに接してきた。
これらの体験は、私の心の奥底に接する。
何かが呼び覚まされる。
1ヶ月に1回くらいは、このような経験をしないと
心の全体が自我に支配されてしまうだろう。
私の心の働きは、何か大きなものによって動かされており
自分で考えたり決定したりしているつもりでも
実は、その大きな力の反映にすぎないことが良くある。
群生する植物、草いきれ、分厚い苔、土塊などに接する経験は、
そのようなことを強く自覚させる。

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2011年5月2日月曜日

肉体と心理は、メカニックなものとして理解できるが・・・

肉体のメカニックな理解


肉体は臓器と組織からできている。
それは、殆どメカニックなものとして理解できる。
機能と、作用と構造。




心理のメカニックな理解


心理も、神秘なものではない。
心理も、メカニックなものとして理解できる。


さて、肉体も心理も、メカニックな構造は理解できるが
その起源や、エネルギーの源は
未だに
理解できていないのである。


私は、この両者の源を、「自然」に求めるのであるが、
「自然」と肉体、「自然」と心理の関係は
いまだに
メカニックなものとして理解できていない。


このリンクされていないものを
メカニックな理解として接続したいと思っている。


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