2011年3月2日水曜日

感覚は、作り出すのか?それとも、受け取るのか?



昨日の朝は、美しい青空だった。
気温も暖かく、本当に過ごしよい日だった。

近所の大きな公園に行った。
青空を飛行機が飛んでいた。飛行機雲が一直線に線を描いていた。
私は手を伸ばして、空に線を描いた。のではなくて、描く真似をした。

このような時、自然がぴったりと私に貼りついているように感じるものだ。
本当に足が大地から生え、手が空に届きそうな気がする。

この気持ちの良い伸び伸びした気分は、
私が単にそう感じているのではなくて、
どうしても、もともとそこに在ったものを私が感じ取っている、
と思わざるを得ない
・・・・ような気分になる。

私は、空や大地を、自分の身体のように感じたいと思っている。

大きな石の上に身を横たえた。
石は硬く、ごつごつしていた。この、「ごつごつした硬い感じ」は
私が勝手に感じているのではなくて、石に元々備わっている特性でもあるはず。
したがって、「ごつごつした硬い感じ」は、石と私の中間にあるように思える。
「ごつごつした硬い感じ」が石と私の出会いを決定的なものにする。
「ごつごつした硬い感じ」が、石と私の存在を定義する。

感覚は、何を起源とするものか?感覚はどこから発生するのか?

石の接触が私の触覚を刺激し、脳内で統合的解釈をつくりだす・・・・という単純なものではあるまい。

「ごつごつした硬い感じ」が、まさに世界を作り出す。現象学的に言えば、世界を開示する。
だから、どうしても「自分がつくりだす」よりは、「向こう側からやってくる」ような気がする。
僕らは何かを感じるごとに、世界を切り開いているのだ。

たぶん作り出している=解釈しているのではなく、受け取っている のでもない。
その場で発生し、その場で事件が起きている。その事件は、私と対象物が何物であるかを定義する。

どこから発生するのか?わからない。とにかくどんどん出てくるのだ。
お茶と食塩


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