2011年3月2日水曜日

霊界 と クラウドコンピューティング

私は考えるのがだが、霊界のあり場所さえわかれば・・・わからないまでも、仮説くらい立てることができれば ぐっと現実味が増してくるというものだ。

ひとつの仮説として、クラウドコンピューティングをヒントにした霊界のモデルを試みてみようと思う。

なんのことやら分からぬという方々が圧倒的と思いますが、クラウドコンピューティングとは、何かということは、ご自分で検索して調べていただくとして、要は端末となるPCは通信機にすぎず、ハードウェアやOSやアプリケーションソフトは、どこかのサーバーにあるものを借りるというシステムです。そのサーバーがどこにあるかは、ユーザは分かりません。分からなくてもいいというのがこのシステムの自由なところです。実際は、処理はいくつかまたはたくさんのサーバーに分散して行なわれており、データ内容もどこにしまってあるのか、ユーザにはわからないのです。まるで雲の中から情報や処理サービスが降ってくるようなので、クラウドと呼ばれています。

さて、私は考えるのですが、個人の経験や体験は、個人だけのものなのか、つまり、個人の脳内だけで行なわれているものなのか。

実はさまざまな人の脳がサーバーの役目をしていて、記憶や経験、感覚は個人以外の別の人の脳でも処理されているのではないか?

つまり、私が今経験している事実は、何百、何千、何万という他の人の脳で深層心理として処理され記録され、バックアップをとられているかもしれない。

人間は一人一人違っていて、隔絶していて、孤独なようでいて、実はそうではなく、人間の考えや思考、経験、生活などはほとんど類型的であり、その差異は、非常に少ない情報量で区別がつくものではないのか?

私の意に反して、私の考えや思考や経験は私だけのものではなく、私に接する多くの人に共有されており、仮に私が死んだとしても、それらのバックアップを総合的に組み立てれば、田島鉄也がもう一人出来上がるのではないか?

例えばドラマなどで、兄が死んで落胆している弟に対し、「お兄さんは死んではいない。君の心の中で生き続けている」などといって慰めるセリフがあるが、それにはかなりのリアリティがあると思うのです。

すなわち、私の脳、または私という経験的事実は、実はPC端末にすぎず、たいしたメモリもCPUもアプリソフトも持っていない。通信、入力、ディスブレイをするだけのものであって、実体はクラウドの中に・・・数限りないサーバー(つまり数限りない他者)の中にあるのではなかろうか?

私は死んだとする、しかしそれは端末としての私が死んだに過ぎない。私のことを記憶している人々がいる。だから私は決して無にならない。その記憶している人々もすべて死んだとする。私が存在したという事実や伝承や、うわさが一切無くなって、はじめて私は死ぬことができる。

しかし、私の子供が、そのまた子供を設けていたとすれば、私の遺伝子は受け継がれているので、私は決して無になることはできない。

完全に死ぬ・無になることは極めて難しいことだ。

さて、霊界と呼ばれているものは、このようなある文化圏を共有する人々全体が構成するクラウドであって、実はそれは、私たちが想像する以上に豊穣で奥が深く、何層にも分かれていて、あたかも別のいくつもの世界があるかのようなものとして、現実に働いているのではないだろうか???

端末として機能している個人は、生前せっせと情報をクラウドに送り続け、バックアップをとり続けて、死んで端末がなくなったら、クラウドの中ではあたかもひとつの人格であるかのように機能するのではないか?

文化圏ひとつに対してひとつのクラウドがあって、クラウドの中で死者は生き続け、そしてある場合にはそれがまた端末として再生される(生まれ変わり)・・・・

この世に未練を残してきた故人は、ある性能の良い端末を選んで自分の姿を見せたりする(幽霊)・・・・・

さて、この説の最大の弱点は、端末とクラウドの通信手段です。個人との会話や姿の印象だけで、その人の人格や経験などがバックアップされるというのは、確かに根拠が薄い。

人間もわずかな電磁場を感じる能力があるというので(人の気配というものは、運動する人の発する微弱電磁波を他の人が皮膚で感じ取るということらしい)、視覚・聴覚以外の感覚伝達が行なわれている可能性はあるのではないか??



にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿