2011年12月30日金曜日

千葉コンビナート地帯に行ってきました

すでに書いてきたように私は、自然-身体-精神-社会 をつなぐことを目指しているのだが
最近は身体と自然をダイレクトにつなごうとすることに無理を感じている。
なぜなら、私たちは、巨大な産業に取り囲まれており、
それがなければ実質的に生活することができなくなっているからだ。
決してダイレクトに自然に接しているわけではない。
だから、 自然-社会-身体  
というふうに順番を入れ替えなければ、ならないわけだ。


つまり、社会を自分の身体として感覚的に理解する、ということが
必要になってきている。
これは大きな課題だ。


そのような努力を続けていたある日、Google mapを見ていて気がついた。
関東の地図を見ていると、東京湾は人工的な埋め立てでできていることが良くわかる。
その中で、私が注目した箇所がある。
千葉にあるコンビナート群だ。






木更津から千葉市まで、延々20km以上にわたって、石油コンビナートが続いている。


石油精製所は多数。3つの火力発電所、2つの大きな製鉄所がある。
産業の主な素材である、粗鋼、精製石油、プラスチックの原料であるペレット、などなど、がここで作られている。
日本の産業の原料の多くがここで作られているのだろう。


「産業の身体化」を考えている私としては、是非、見に行きたい所です。


というわけでクルマで見に行ってきました。


実際言ってみて、驚いたのですが、それらコンビナートは、地上からは殆ど見ることができないのです。


国道16号線が、コンビナートに沿って走っています。
この16号とコンビナートの間には、樹木が植えられており、中の様子を見ることはできません。
もちろん中は、企業の私有地ですから、関係者以外は立ち入り禁止です。
東京湾に突き出した広大な工場の土地は、見ることはできないのです。
驚くべきことに、これだけの基幹産業施設が実質的に不可視であるわけです。

Google MapやGoogle Earthのほうが全体が見えて興味深いし、中の様子も良くわかります。



左にコンビナート工場群があります。
右の森と送電線の向こうに国道16号線があります
。ここは一種の緩衝地帯です。


国道16号線から見える煙突



樹木の間から見ることができた、
石油精製施設のごく一部
16号の枝道から入って見えた工場施設の一部


3時間ほどクルマでコンビナートの前の道をうろついて、帰って来ました。
コンビナートを間近に一望できることを期待していたのですが、それは徒労に終わり、
逆にこれまでと同様、「社会インフラは目に触れないようにされている」と確認してきたのでした。

しかし、家に戻って考えてみると、自分の身体が大きくなっているような感じがします。

「社会システムを感覚で捉えること」 「産業の身体化」は、自然を感じることにくらべて
決して気持ちの良いものではありませんが、
大きなものに触れて、すこし産業システムを実感できたようだ。

肯定も否定もすることなく実感すること。
わたしはそういう「社会的身体」を作りつつあるらしい。



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2011年12月24日土曜日

社会的身体

そもそもこのメッセージサイトのテーマは
自然-身体-精神-社会 をつなぐということだが
現実には自然と身体の間には、どうしても社会が挟まってしまっている。
自然と身体が直接つながっているというのは
現状を無視した理想的な状態だ。


私たちは、食べるもの、着る物、飲む物、すべて
産業と技術から提供されている。


私たちはあらゆる意味で社会の「中に」生きている。
その事実を無視しては、何事も進まないだろう。


だから社会と身体を直接つなぐこと、つまり
「社会的な身体」を生成することが必要だ。


たしかに人間は社会的な生き物であり、
誰であろうとも社会とかかわりを持って生きている。
しかしここでいう「社会的な身体」ということはそういうことではない。


道路、鉄道、石油コンビナートなど、およそ非人間的なものと
肉体的あるいは感覚的な関わりを持つということである。


一つは、産業や物流の構造や仕組みを良く知ることだろう。


そして産業や物流のネットワークを通じて自然との関わりを
見つめるということだ。


僕たちが胃や腸の位置を知るように、発電所やゴミ処理場などについて
知っているということだ。


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2011年12月17日土曜日

個展のお知らせ

個展をします。




THE LEMONS
2012年 1月23日-28日 
11:30-19:00 (-17:30 on 28th)


アーティストトーク 1月28日(土)  16:00-




ギャラリー現
東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F
tel 03-3561-6869  www.jpartmuseum.com/g_gen/




梶井基次郎は、丸善で本を積み上げその上に檸檬を置き、それを爆弾と称した。そして「得体の知れぬ不吉な塊」を吹き飛ばした。基次郎の時代から80年あまりが経過したが「得体の知れぬ不吉な塊」は、ますます広く拡散している。それはグローバル資本主義経済であり、姿の見えない権力であり、世界全体を覆う人工物である。そして私はLEMONを設置する
 






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2011年12月5日月曜日

社会システムを如何にせん

現代はあまりにも複雑になりすぎたし、
現代社会で生活していくためには、非常にたくさんのことを学ばなければならない。
そういう生活の嘘っぽさを常々感じていたので、
自然-身体-精神-社会を一貫した線でつなぐ ということを始めたのだが、
どうしても超えなければならない壁が立ちはだかった。

社会システムだ。

僕たちは社会システムの中で生活している。
水さえも川から直接汲んで、直接川に返すのではなく、浄水場と水再生場という
2つのテクノロジーを経由しなければならない。
電気、ガソリン、ガス、食品、衣類、その他、その他・・・、
どこでどうやってで作られて運ばれてくるのかさっぱりわからない。

どうも、わけのわからないところに宙吊りにされているような気がしてならない。

そして、恐ろしいことにそういうことを問わなくても生きていけるのだ。

どうもすこしづつ解きほぐしていかなければならないようだ。
発電や送電の仕組み、金融の仕組み、情報ネットワークの仕組み、ありとあらゆる
社会システムの仕組みを。

社会システムは生命体のようなものだ。
つまり身体に例えられる。人体は、骨格系、筋肉系、循環系、神経系、リンパ系、消化系の
各層になっている。
それと同様に、社会システムにも重化学から情報産業まで、いろいろな系がある。

そしてたぶん、それらを一貫して理解しうるキーがあるはずだ。

身体では呼吸が自律神経を整える手段であるし、丹田という身体の中心感覚もある。

この社会システムという化け物を、手なずけるコツのようなものがあるのではないだろうか。
身体感覚と同じように、「社会システム感覚」を身に着けることができるかもしれない。

そして社会システムを、自分の身体に取り込んでいきたい。
そして、それをやった上で、再び自然に向きあうのだ。

2011年12月2日金曜日

Bioscapes

2011年のOlympus Bioscapesは、ビデオが多い。
私としては4th winnerのゾウリムシが秀逸と思う。
周囲をとりまく繊毛の細かな動き
収縮胞の動きなど
生きている迫力を感じる。



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2011年11月14日月曜日

檸檬テロ

梶井基次郎は、小説「檸檬」において、丸善の本を積み上げてその上に檸檬を置き、それを爆弾と称した。
この爆弾は「得体の知れぬ不吉な塊」を吹き飛ばすことに成功した。


基次郎の行為は、物理的には本の山の上の檸檬にすぎない。
だが、檸檬は小説となることによって人々の意識内部にて作動し始めた。
文化のメディアを纏うことによって動き始めたのだ。


さて今や我々は社会的システムに取り囲まれている。基次郎の時代とは比べ物にならぬほど何重もの層になっている。
このシステムの第1の特徴は、自然と人間を隔てる社会的なインフラである。
住宅、道路、上下水道、電力供給網、通信電波網、生産、流通、金融…。
我々は、社会という体内の中にいて、その中でのみ生きていることができる。
システムの第2の特徴は、社会の内部での支配であり、主なものは、制度と記号である。
記号の最たるものはカネであり、私たちはそのために生き、そのために死ぬといっても過言ではない。

それが我々の棲息する現場であり、我々自身の状況だ。
これらのものがどれほど我々を実在というものから遠ざけているだろうか。
そして、そのことをいかに巧妙に隠蔽しているだろうか。

「得体の知れぬ不吉な塊」は、形を変えて再生産されている。
これらの勢力は浸透力が抜群で、圧倒的であり、一見反撃の余地はないかのように思える。


しかしそうではない。社会システムをずらし、折り曲げ、別の物語を生成する場所をつくることはできる。
我々の目の前には、かけがえのない場所と現実の物体があり、私の肉体はここにある。
私は、新しい物語が息づく場所を作りたいと思う。
それは芸術という分野のみならず、我々の精神生活においても機能するような仕掛けであり、
「生きていくため」に必要な技術である。


 
・・・---・・・    ( S O S )
 
   

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2011年11月5日土曜日

歩道橋に紅葉を並べてみた

我が家の近くに環七(環状七号線)がある。
そこに歩道橋がかかっている。
ほとんど使われていない。
通行は1時間に一人程度。
近くには信号と横断歩道があり、大抵の人はそこを使う。
歩道橋は何のために作られ、維持されているのかわからない。


秋の紅葉の葉を並べてみた。





下はクルマがひっきりなしに通る。
しかし、歩道橋の上は見られない。一種の密室です。
私は人知れず葉を並べていた。

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2011年10月29日土曜日

沈黙について

ジョン・ケージの伝記を読んでいる。
ジョン・ケージといえば、私が薫陶を受けたマリナ・アブラモビッチが師と仰ぐ人である。

あの記念碑的な作品、“4分33秒”の誕生についても詳しく書いてある。
もちろん、“4分33秒”は、思いつきで生まれたのではなく、
東洋思想の深い理解から生じた作品である。

楽器が何も音を出さないことによって、ざわめきや風などの周囲の音を聞くことがその意味であるとのことだ。

さて翻って我々の生活には、なんと沈黙が少ないことであろうか。
また、町並みにしても、車道、歩道、家、塀、駐車場と、意味でぎっしりと埋め尽くされて
なんと窮屈なのだろうか。

私たちはそこに無理やり穴を開け、沈黙を流し込む必要がある。
私たちは息をする必要があるからだ。


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2011年10月27日木曜日

芸術は現実を変えられるか

芸術は現実を変えられるのか。
古くて新しい質問だ。
芸術というものが独立して存在することが認められてからずっと
繰り返されてきた質問だ。


ロシアの構成主義が
フルクサスのメンバーが
現実を変えようとして取り組んできた。


結果、それで社会が変わったという歴史的な証拠は無い。


しかし、現在各地で行なわれている芸術祭や
ワークショップは、(人々の生活を変えたとは言いがたいが)
少なからぬ影響をもたらしている。


現実は変わったのか、変わりつつあるのか。


はっきり認めれば、変わりつつあるのだろう。
芸術に対する人々の期待は大きい。
その期待が少しづつ実現しつつあるのが、現在の状態なのだろう。
変わったのだ。ひとびとのコネクションが。
それがなければ実現しないような、人と人とのつながり。
それだけではなく、考え方のコネクションも変わってきている。


やはり、不可逆的な構造変化が起こっている。
みんな何かの間違いに気づきつつある。


芸術は画廊や美術館の中だけにあるものであり・・・
芸術祭は開催地域で、その期間内だけにあるものであり・・・・
そのような飼いならされた芸術はもう終わる。


芸術は、現実に影響を与えるだろう。
それはいわば、第4次産業として
あるいは古代の社会において神話が担っていたような
社会的な役割を担うようになるだろう。

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2011年10月16日日曜日

ここに在るということ

中之条ビエンナーレを振り返って感じたことは
「ここに居る」ということだ。

勿論、単に物理的に在るということだけではない。

この肉体から離れず
この心から離れず
この場所から離れず。

この3つが一致して初めて「ここに在る」ことはできる。

私は東京の日常があるから、中之条には、週末ごとに通っていた。
日帰り制作か、せいぜい一泊である。
しかし、滞在制作が基本であり、現場の空気を吸って現地のものを食べ
現場で考えなければ、やはり良いものはできないものだと感じた。


翻って、現在の私の住む場所はどうだ。

東京の住宅街で、特に何の特徴も無い。
自然豊かでもない。
はっきりいうと私はこの場所が好きではない。
飯能に生まれ育った私は、山や川が身近にあるのが本当の暮らしであり
今居るところは仮住まいという感じがしていた。

しかし、・・・しかしである。

現実に私は好むと好まざるに関わらずこの場所に居るのであり、
そうである以上、この場所から考える以外にないはずだ。
遠くのことを思うのではなく、今あるところを見るべきだ。

そう思って家の周囲を見渡すと、確かに操作できる素材がある。

私は、私の周囲の無意味なものたちに、意味を与えていかなければならない。
意味を与えることが、生きているということだからだ。

それらのことをなすために、
梶井基次郎は、大きなヒントを与えてくれている。




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2011年10月15日土曜日

梶井基次郎・ 闇の絵巻

梶井基次郎の小説をまとめて読んだ。

今は青空文庫で手軽に読むことができる。


殆どの作品は、社会と関わりを持たない男の独白という内容で、私小説である。

「檸檬」はもちろん秀逸だが、「闇の絵巻」も優れた作品だ。

療養先の旅館と旅館の間の暗い道を歩いていくというだけの話だが、なんという豊かな闇であろうか。
「この闇のなかでは何も考えない。」とはいうものの、実は、いろいろな感覚を動因して全身で闇を感じているのである。
山の黒々とした闇、沢の轟々とした水音、そして道の半ばに一つしかない電灯が、闇を強烈に印象づける。
  
 ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯(ちょうちん)なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。


梶井基次郎は、闇という単なる現象に、多様な本質的な意味を与えることができる。
もちろんその才能は、我々にもあるはずだ。



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2011年10月7日金曜日

檸檬テロ

梶井基次郎は丸善で本を積み上げてその上に檸檬を載せ、
それを爆弾と称した。
彼のひそやかなテロは、彼自身にとってのみ有効であった。
「えたいの知れない不吉な塊」は、それによって吹き飛んだ。
だが、それは彼一人にとってのみ有効だった。

しかし今や檸檬は小説となることによって再生産されている。

現代、私たちは様々な社会基盤の上に生活し、それを利用しまたはそれに利用されている。
「えたいの知れない不吉な塊」は、ますます拡大する一方だ。

そもそも、現代の社会基盤は物語をもっていない。
住宅地には、主(ぬし)という大魚の住む沼も、キツネの出る松もない。

土地に物語がない。そのことは、土地が私たちの身体から遊離しているということだ。
私は土地にそして土地だけでなく、水道に、ゴミ処理施設に、インターネット回線に、
かけがえの無い物語を刻む。
物語が無い以上、自分で作るしかない。


かくしてインフラストラクチャに対するオペレーションが始まるのである。


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2011年10月2日日曜日

創造について

久しぶりに岡本太郎の「今日の芸術」を引っ張り出して読んでみた。


今読んでも本当に新鮮な内容だ。


岡本太郎は、現代では人間の全体性が失われていると嘆いている。以下引用します。




 なるほど人は、社会的生産のため、いろいろな形で毎日働き、何かを作っています、しかし、いったいほんとうに創っているという、充実したよろこびがあるでしょうか。正直なところ、ただ働くために働かされているという気持ちではないでしょうか。
 それは近代社会が、生産力の拡大とともにますます分化され、社会的生産がかならずしも自分本来の創造のよろこびとは一致しないからです。逆にただ生きるために義務づけられ、本意、不本意にかかわらず、働かされている。一つの機械の部分、歯車のように目的を失いながら、ただグルグルまわって働きつづけなければならないのです。
 「自己疎外」という言葉をご存知でしょう。
 このように社会の発達とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。
 自分では使うことのない膨大な札束をかぞえている銀行員。見たこともない商品の記帳をするOL。世の中は自分と無関係なところで動いているのです。
ーー「今日の芸術」第1章 より


 今日においても基本的に変わりないが、この本が書かれた1954年と現在2011年とは、だいぶ事情が変わっている。1954年当初では、「部品のような」労働の形が主流を占めていて、「疎外」という言葉も説得力を持っていた。
 さて現在、むしろ私たちは、創造的であることを強いられている。さまざまなビシネススキルを習得することを奨励され、成長を促されるのである。
 逆にいえば、歯車のように働くことができたのは、大資本に守られていたからであって、現在のように先がどうなるかわからない社会においては、個人の成長が重要なのである。


 しかし、現代人の多くが人格を磨くことに熱心かといえばそんなことはない。事態はむしろ逆である。私たちは今、底の浅い創造性を一生懸命発揮しなければならない時代に生きている。


 このことに関して、わかりやすく言っている人がいたのでリンクします。
http://embers.exblog.jp/5377386


 そもそも創造という行為は、生産的なものばかりとは限らないだろう。それらは、一見無駄で、くだらなくて、馬鹿馬鹿しい、そして時に血なまぐさい代物だ。条件つきの創造性などというものがあるだろうか?「世の中の役に立つ創造」というものは、言葉の定義からして矛盾している。

 そして創造が全人的なものであればあるほど、はたからみれば滑稽であろう。



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2011年9月23日金曜日

土地の物語を作る

僕らはアスファルトで覆われた地面の上を歩いている。
そこでは、土地の固有の歴史が消えている。
雨風に侵食され、大地の隆起や河川の通ったあとや
植物が生い茂り、動物たちが生息し、人間が手を入れてきた
・・・そのような土地の歴史があったはずだ。


アスファルトは、それを覆い隠す。


このノッペラボウになった都市空間のなかで生活することは
歴史から切り離され、宙ぶらりんになった状態である。


住むということは、土地の物語を理解し、またそこに関与していくことだ。


主というべき大魚の生息する(といわれている)沼や、
狐が出るという一本松や
幽霊が出るという噂の屋敷や
・・・そういうものと共に生きていくということ。


だがいまやそういうものは無い。


どこまでも合理性が支配する町並み。
近代的な目が行き届いた町並みだ。
もはや、物語を復活させるには遅すぎるような気もする。


そうなると、そういう物語を、自分で作っていくしか無いのではないか?


私自身が池の主になり、狐になり、幽霊になるしかないのではないか?


だが、そのようなことは、どのように可能であり、
どの程度有効なのだろうか?




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2011年9月19日月曜日

隠れた下部構造

我が家の近くの変電設備である。我が家に電気を供給しているもっとも近い設備です。


ここに在るとは誰も気づいていない。

それまでは、何も気づくことがなかった。
確かに窓もない地味な外観。
意図的に気づきにくいようにしてあるのだろう。


どこにあるか?
信号の後ろの白いスレートのようなものが横に並んでいる建物です。
まず、特別興味がない限り普通の人は気づかない。

裏に回って見たところ。変電設備がはいっているのでしょうね。

間違いなく変電所です。
変電所といえば、変電設備が剥き出しになっているところもありますが、
この場合、意図的に人目につかないようにしているのではないかと思われます。
テロなどから守る目的だと思います。


一般的に社会的インフラは、目につかないように隠される傾向があります。
テロなどを恐れてそうしているのだと思いますが
その結果、自分たちのライフラインと呼ばれるものが
不透明になっている現況につながっています。
前にも申し上げたように、自然と身体を分断したのはテクノロジーであり、
特にエネルギーなどのインフラはその主犯とも言えるものですが、
安全管理上の秘密である場合もあって詳しい情報は公開されていない。


僕らの社会は、自分たちに近いものを隠したがる傾向がある。

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2011年9月16日金曜日

泥の中から立ち上がれ

熱い中之条ビエンナーレ。


彼の名は飯沢康輔という。
中之条にレジデンスして、閉店になったパチンコ屋「キリンホール」を会場にしている。
朝は農家でバイト。
貰ってきた土で人形をつくって床に置いていく。
生活と作品が一体となった素晴らしいワークだ。
自然-身体-精神-社会を貫いている。


写真は8月20日の開幕日の時のものです。今はどのくらいの数になっているのだろう。


お客さんも参加でき、泥人形を作ることができます。私も3個ほど作りました。


東日本大震災のボランティアで南三陸町に行ったとのこと。
がれきの中でヘドロをかいて、肉体と空気と地の根から、考えたのだ。
それでも人は立ち上がる。地の中から立ち上がると。


彼は自分自身になった。
アーティストであるということは、自分自身であることだ。

いくつあるか知れぬ泥人形。今はもっと増えているはず。

飯沢さん

泥人形から芽が出ている。
飯沢氏のブログも覗いてみてください。
http://exuok.exblog.jp/




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2011年9月11日日曜日

現代における祭の意義

祭のシーズン到来。

私も今年も神輿を担ぎました。
法被を着て足袋アスファルトの地面を踏みしめる。
神輿がクルマやビルが間をすり抜ける。

近代的なコンクリートの空間に突如出現した江戸の集団。
妙な光景だ。

祭といえば、太古の昔は、社会のもっとも重要なイベントだった。
政と書いて「まつりごと」と呼ぶほどである。
宗教と政治は当然分離していなかった。

一方、宗教と政治が明確に分離され、それどころか行動の諸原理が
ことごとく高度資本主義に沿っている現代においては
祭というものは、社会の片隅に追いやられているようにも見える。

しかし、この祭や神輿というものは、実は滅び行く伝統芸能ではない。
現在でも子供や若者を取り込み、再生産している活動である。
実は私の近所の商店街地区が主催するこの祭において


神輿が始まったのは実は2006年からだ。
さて、この現代において、祭がなぜ生き続け、再生を続けているのだろうか。

祭とは、その土地の物語を肉体で理解することである。
神輿は神社で清めをうけ、街中を練り歩く。
私は、わが町が氷川神社の体系に登記されていることを祭を通じて知った次第である。

住む土地とのつながりが希薄になった現代において、土地とつながる数少ないチャンスなのである。
ゆえに、これはなかなか無くならない。また、再生産のサイクルに成功すれば拡大することもできる。

さて、この祭システムには特徴がある。
法被を着ている人のみが祭に参加できることである。
道を歩いている普通の人が、Tシャツに短パンで神輿を担ぐわけにはいかない。

このことのメリットは、強い仲間意識を築くことである。これは強い求心力として働き、祭システムの維持に貢献している。
一方その意味で閉鎖しているので、一般化できにくいというデメリットもある。つまり特殊なので広がらないのだ。

さて、再三申し上げているように、私は現代において、自然-身体-精神-社会がつながる、価値体系を模索している。
祭は大きなヒントになっている。

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2011年8月22日月曜日

中之条ビエンナーレ いよいよ始まりました。

8月20日、中之条ビエンナーレ初日です。
拠点会場の「つむじ」にて、私のアクション
「米糊を手で塗る」が行なわれました。




YouTube






初日の夜はイベント「夜光市」が行なわれ、音楽とダンスで盛り上がりました。
全ての会場に作品が揃い、沢山の人たちが訪れています。
今、中之条は熱い。


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2011年8月18日木曜日

現代文明の身体的理解とは

今日は殺人的な暑さだ。
私はエアコンの効いた部屋で、インターネットに触れ、この投稿を打っている。


エアコンなど無かった江戸の昔は、暑いときはなるべく動かないようにし、あとはひたすら暑さに耐えていた。


私たちは、資本主義的なテクノロジーに取り囲まれ、
それらと一体になって生活している。




私はいままで、こういうことを、自然と身体とを分断するものとしてネガティブな記述をすることが多かったが、そのように捉えることは、誤りであろう。


浄水場からの水を使い、下水処理場で浄化して川に戻す。
化石燃料(や原子力)をつかって発電した電力を使っている。
インターネットをつかって情報を入手したり、流したりする。
Eメールは欠かせないツールになった。
第1次、第2次、第3次の産業を通じて生産されたものを消費している。


このテクノロジー全体(ハイデガーのいう「ゲシュテル」)は、紛れもない現実であり、もはや否定すること自体がナンセンスだ。


では、どうするのか?


あまり面白いことではないが、むしろ、このテクノロジー全体が、私たちの身体である、と考えるべきではないだろうか。


私たちは、社会から独立した一個の生命体なのではなく、資本主義的テクノロジーに心も体も渾然一体となっている。
意識や無意識は、個人が持っているものではなくて、社会に深くかかわっており、むしろ一つの資源や産業のように需要と供給の中に位置づけられる。
フーコーのいうミクロ権力、またはルーマンのいうように社会が一個の有機体なのだろう。


直接自然に接しており、自然と駆け引きをするのは、このようなテクノロジーであり産業なのである。だからそのテクノロジーや産業が我々の身体であると考えたときに、我々の真の自然認識は始まるのである。


我々は、浄水場が食道であり、下水処理場が腎臓であり、発電プラントが肝臓であり、情報ネットワークが神経系統である。


社会を身体となぞらえることはホッブス以来の古臭いアイデアであろうが、現代においてリアリティをもって産業=身体 説は復活されるべきであろう。











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2011年8月8日月曜日

中之条ビエンナーレ搬入

群馬県中之条町で2年に1回行なわれるアートイベント 中之条ビエンナーレの搬入に行ってきました。

木造校舎や商店街など、町の各所で作品が展示されるイベントが行なわれます。
さて、私の会場は旧第三小学校という廃校です。



昔のたたずまいを残す木造校舎



私の割り当ての教室。木の窓枠が美しい
  

教室の前面
 


紙を貼って米糊(+食用竹炭)を塗りました。
真ん中の四角のものが黒板の部分です。




黒板部分を角度を変えてみたところ

中央部の拡大



教室の後ろ。
描いたところは平面で
空いているところは柱に相当します。



部分拡大


体育館でも展示していますが、搬入が遅くなり、写真がとれなかった。
 中之条ビエンナーレは8月20日開幕。
オープニングイベントの一つとして、私の「米糊を手で塗る」アクションが行なわれます。


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