2010年10月18日月曜日

新作ができました。




タイトル  身体観の変容

分子治療やiPS細胞など、今や生命科学の興隆は目覚しい。私は、従来とは異なる新たな生命像/自然像の誕生を予感している。
しかし、現代人の生活は自然と離れ、身体と精神は分離し、精神は社会に支配されている。現代人の身体は、バラバラになっている。
自然の中で暮らしていた太古の生活では、自然-身体-精神-社会が一体となっていた。神話、祭り、伝統的身体鍛錬などがその役割を負っていた。
私は、再び 自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指している。現代の生命科学がもたらす豊富な知識やテクノロジーを持ちながらかつて神話が担っていたような感覚的な自然の理解を復活させたいと思う。
科学によってバラバラになった身体観を、バラバラになった状態のまま、固有の価値に昇華させたい。言葉より先に芸術はそれを実行する。*作品は女性ファッション雑誌などから肌の部分だけを切り取ってコラージュした。


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2010年10月10日日曜日

虫は痛みを感じているのか?

例えばゴキブリに殺虫剤を吹き付けると
いかにも苦しそうにバタバタしている。
しかし、本当に「苦しんでいる」のだろうか?
苦しみを感じているのだろうか?

例えば雨上がりのアスファルトに、ミミズが這い出てきて
途中で乾いてしまい、のた打ち回っているのを
目撃することがあるが、
彼らは「苦しい」のだろうか?

彼らには痛覚を司る器官はないし、神経回路は単純で
「意識」があるようにも思えない。

脳を切り落としたカエル(脊髄カエルという)の背中を
硬いピンセットで刺激すると痛そうに後ろ足で払いのけようとする。
これは脊髄反射の典型的な実験として広く知られている。
脊髄カエルが激しく反応するのは単なる反射であって、
脳がないのでいわゆる「痛み」を感じているのではない筈だ。

科学的な解釈によれば、殺虫剤をかけたゴキブリも、乾きにのたうつミミズも、
激しく動くのは「反射」の類であって、「痛み」や「苦しみ」とは関係ない。
ただ、私たちが「痛そうだ」「苦しそうだ」と勝手に解釈しているにすぎない。

■ ■ ■ ■

しかし、本当にそういえるのだろうか?
本当に、「痛み」や「苦しみ」はどこにも存在しないのか?

奇妙なことをいうようだが、かれらゴキブリやミミズが
痛みと苦しみを感じる能力がないだけなのであって、
痛みと苦しみそのものは現にそこにあるのではないだろうか?


人間が80℃の湯に手を入れると熱いのですぐ手を引っ込める。
しかしもし80℃の体温の生き物がいたら、兆度いいと感じるだろう。
100℃の体温の生き物がいたら、冷たいと感じるだろう。

共通するのは、温度という物理量の感覚であって、
相違があるのは快か不快かの解釈である。

薬剤の浸透によって神経が麻痺する感覚や
水分の不足による身体の機能不全の感覚は
生物機能の危機=「苦しみ」という全生物にとって共通のものである。

それをリアルな苦しみとして心の中で表現するかどうかは、
その生物の感覚の内的表現能力によるのである。


現象とともに感覚は普遍的にそこにあるのであって、それは意識の明瞭さには依存しない。
しかしそれをどう内的に表現するかは、体験者の能力による。

だから虫は全身で痛みを感じている、ともいえるし、何も感じていないとも言える。


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2010年10月3日日曜日

今後の革命の可能性

赤軍に関するDVDを3本みた。

赤軍‐PFLP 世界戦争宣言

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

光の雨

彼ら赤軍は何を間違っていたのか、知りたかったからである。というより資本主義を根底から覆そうとした彼らの試みが、どのように瓦解したのか確かめたかったのである。

というのは、私は資本主義に強い疑問をもっているので、一つの失敗例として分析したいと思ったからである。

「赤軍-PFLP世界戦争宣言」が最も興味深かった。
他の2本のようなドラマではなく、活動家本人達が語っているからである。

突然画面全体に
武装闘争は現実である」と出てくる。
次にテレビのモニターが登場し、そこにテレビドラマやコマーシャルの映像が流れる。
そしてナレーション


現実は、敵と戦っているか?

現実に、敵と戦っているのは誰か?

現実に、我々は敵と戦い得るのか?

武装闘争の世界的現実は、日本的現実の中で如何に行なわれているのか?

如何に武装闘争を行なっているのか?

いや、如何に武装闘争を展開していこうとするのか?


なぜ、「武装闘争は現実である」などと、言わなければならないのだろうか?
彼らは現実に武装闘争を行なっている(今となっては「行なっていた」)はずではないか。

テレビ画面が背景に流れていたのが示唆するのは、
世界的に資本主義的現実というものが蔓延しているからで、
彼ら革命家は、武装闘争というもう一つの現実を作らなければならないかったからである。
豊かな消費社会の権力構造のなかで、一体何に対して銃を向けるべきか?。
映画の製作は1971年で、共産主義はまだ元気だったはずだ。しかし、彼らは戦いの困難性を最初から認識しているようである。

その後、パレスチナの女性革命家が語る。
「革命家は自らの個人的生活を戦いの中にささげ、それを実践していなくてはなりません。
したがって、個人的な生活というものは無いし、闘争の生活というものも無いし
なぜなら、戦いとは革命にまきこまれる全ての人々にとっての個人の、そして全体の生活であるからです。」
プチブルであることを退け、プロレタリアとして生きようとする、彼女の独白は印象的だ。革命家であるとは、政治的なことではなく、倫理的な問題なのだ。なぜなら資本主義的現実が、彼らを取り囲んでいるからである。

最後はインターナショナルが流れるのをバックに
「武器をとれ!」
「銃」
「銃弾」
「武器」
「銃口」
(なぜか左右逆さま)
「引金」

という文字が続く。

彼らの闘争を唯一支えるもの、それは銃だ。
彼らにとって銃は単に武装闘争の道具ではない。
侍の刀のように、精神的な基盤となっている。
革命家としてのアイデンティティそのものとなっているのである。

敗北した70年安保闘争、そして潰えた日本革命の夢。
世界拠点を求めてパレスチナに亡命し、世界革命を語る彼ら。
彼らは、銃によってのみ自らを革命家と位置づけることができたのだ。

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私も、孤独な戦いを続けているが
実をいうと彼らの心境がわからなくもないのだ。
骨の髄まで資本主義的な自分がたまらなく嫌になることもある。
だが、いまさら銃を持ったところで、どこに向けようというのだろう?

彼らは完全に間違っていた。
資本主義というモダニスムに、共産主義というモダニスムをぶつけたからである。
モダニスム対モダニスムは必然的に戦争となる。
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この先、もし、革命がおこるとするなら、全く違った方向から始まるだろう。
体内のなかから。
頭脳のなかから。
遺伝子操作や意識の解明によって人間の解明がすすみ、
一方で自然に対する人間の感受性が強まり(エコロジーはその最初の表れではないかと思う)
これまでになかった、全くあたらしい価値観、あたらしい世界が立ち上がるのではないだろうか?
それは、神話や祭礼と、科学技術と芸術が渾然一体となったものだろうと思う。
具体的なイメージが、出てきそうで出てこない。・・・
もどかしいが、もう少し時間がかかると思う。



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