2010年9月27日月曜日

「たましい」は在るか? その3

「たましい」の話題である以上、死について書かないわけにはいかないだろう。
死は基本的には物理的な現象であって、私の心がいくら死を嫌がっていようとも、私の肉体は絶えず崩壊に向かっているので、それは避けようもない。じたばたしても仕方がない。受け入れるしかない。

しかし私は実際に不治の病を宣告され、余命数ヶ月と言われたら、たぶん私は驚愕し、自分の不遇に怒り、嘆き、悲しみにくれて号泣するだろう。動揺は数日間は収まらないだろう。そうしてやがてそれを受け入れ、人生を終わらせる準備を始めるだろう。そういう精神状態にたどり着くまでに2週間くらいかかると思う。しかし時間はないのだ。やり残したことを整理し、お世話になった人に感謝してお礼を言う。たぶん、いままでの人生で一番忙しい時間だろう。やがて病状は悪化し、苦しんで、死ぬだろう。

希望があるとすれば、以下の2点である。
一つは、後世に残る仕事をしてから死にたいということである。私には自然-身体-精神-社会をつなぐというテーマがあるが、それを達成しえないまま、人生を閉じなけばならないとすれば誠に残念だ。残りが数ヶ月しかないとすれば、大幅に計画を変更し大急ぎで成果をまとめなければならない。
もう一つはやはり愛するものに看取られたいということである。そして私という人間が、人々の記憶として生き続けてくれればと思う。

それらの一連の過程のなかで、私は「あの世」について口にするかもしれない。
病床で、家族や見舞いに来てくれた人に「先に行って待ってるよ」とか、言うかもしれない。
もう2度と会えなくなるのではなく、一時的に会えなくなるに過ぎないというフィクションを口にする可能性はある。そうすることによって私は、その人との絆を確認するだろう。ただそれは、慣習以上の意味は持っていない。
病が内臓、神経、循環系を侵し、耐え難い苦痛に襲われ、身体の機能が衰弱していくのを感じ、やがて意識が朦朧として、そして死ぬだろう。
私の肉体は物質に帰る。
しかし、私の遺伝子はわが子に受け継がれ、また私に関わった人々には私の記憶が生き続け、私のいくばくかの業績は残るかもしれない。私は死ぬが、私が生きていたという事実は決して死ぬことはない。

生きる意味とは、自分の身体で多様な価値を生成できることだ。死んでしまったらそれはできない。願わくば十分納得できる価値を生み出した後、「もう十分に生きた、満足だ。あとは死ぬだけだ」という心境になってから死にたいものだと思う。

私は「たましい」の不死を必要としない。ただ私という人間が生きていたというそのことの価値は、決して死ぬことがない。


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2010年9月26日日曜日

バリ島にて


2010年9月22日水曜日

「たましい」は存在するか? その2

 前回の更新で、私は「たましい」は存在しない、と述べた。
 私が無味乾燥な思想の持ち主と誤解されるかもしれないと思うので、弁明しておこう。 実をいうと「存在しない」と主張するのとは違っている。「たましい」が必要な世界感を持っていない、と言ったほうが良い。
 
 私は自然が好きだ。野や山や海に行って、幽玄の森を眺めたり、海の波を見てそのたおやかなリズムに心酔するのが大好きだ。私は、自分が自然であり、自然そのものであると日頃から強く実感している。


 しかし、自然とはそのような場所に行かなければ出会えないのであろうか?

 違う。自然はどこに行かなくても、私にぴったりと張り付いている。自然とは、私の身体・肉体・カラダそのもののことである。自然とは私の目の前に広がっているのではない。私自身のことなのだ。自分の身体が自然だ。自然とは私の身体そのものだ。宇宙の物質のあらゆる進化の現在の段階で、精緻極まる生体システムを詰め込まれた驚くべき成果が、この私の身体だ。
 私とは、私の身体であり、私という大自然である。 私という森である海である。

 私は自然そのものである。これは確固たる安心である。
それは決して私から離れないし、裏切らない。絶対の信頼をおけるものだ。宇宙すべてと全く同じ原理が私自身の身体に適応されている。そのような安心、信頼がある。


 もちろん、それは私の頭の中で起こっていることも例外ではない。私の思考・意識・感覚も自然である。私の意識や思考は、本質的には森の木々が風にざわめいたり、波が砂浜に打ち付けられたりするのと何ら変わりがない。私の血管を廻る血液も、栄養と吸収する腸の働きも、神経細胞の発火システムである私の意識や思考も、全ては自然そのものである。


 したがってここにおいて、「私」という自由な意志をもった何者か、という機能は存在しない。なぜなら意思や行為は、身体の自然によって選択されるのであるから。意思や行為は身体の自然にとって必然的なのである。したがって、「たましい」という超越的な何者かが物質を操っているという仕組みを想定する必要はない。

 「たましい」の一番優れた機能は、自然と自分を貫くような感覚だろう。つまり直接自分に作用しているという「直接感覚」ともいうような、自分を含むすべてを貫き、統一した原理で働いているかのような感じをうけるからだと思う。
 そして、それと同じ感じは、私が上述した「身体=自然」の世界感においても十分成し遂げられる。

 ゆえに、私は「たましい」を必要としない。私は、知覚することができない世界(背面世界)がこの世を支えているという世界観を必要としない。

 もし、「たましい」を必要とするとするならば、それは自分が自然そのものであるということを実感できない、または実感しにくいからではないだろうか。

 古代の人にとっては、人間の身体は神秘そのものであった。食べること、排泄すること、生殖することなどは、すべて未知の世界に閉ざされていた。そして自然との一体を確保するために、目に見えないものが自分に作用していると仮設を立てた。「たましい」というものを考え出し、それによる統一的説明を試みた。それはとてもうまく行った。人間の「たましい」は、動物や自然の中にある「たましい」(精霊)と呼応するとし、自然とのつながりを確保する装置として機能した。

 「たましい」の発明は画期的だった。これは自分たちの意識や感覚と自然世界との一体感を説明できる装置として、極めて納得性の高いものだった。そしてそれは現在においてもそうである。

 そしてこの説明は、「たましい」とは何か、という問いをほぼ禁じることによって成り立っている。
 この、目に見える世界と、目に見えない世界という2重構造による世界解釈は、非常に良くできており、「たましい」が疑問に脅かされることもない。

 「たましい」が存在するかしないか、という直接的な質問は議論しにくい。なぜならば「たましい」は問われることを拒否する性質を持っているからだ。
 だから私は、「たましい」が在るとする世界観と、無くても良いとする世界感を整理してみたかったのだ。

 実は私は、「たましい」なるものが存在しても別に良いし、この物質の世界が背面世界の運動の反映であるとしても別にかまわない。なぜならその背面世界を含めて「自然」であるので。
 「たましい」があるとするならば私はそれを含めて「自然」として認めるのみである。 そのほうが「自然」が大きく広がって面白いとは思うが。


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2010年9月17日金曜日

「たましい」は存在するか?

僕は、理化学研究所の脳科学研究センターというところに企業派遣のテクニカルスタッフとして勤めている。つまり、脳科学の最先端の現場にいるという幸運な環境にいるわけです。

先日、脳科学研究センターの内部発表会があって、各研究室が最新の成果を発表しました。
最近の進歩は目覚しく、意識や認知の研究も、かなり精緻になっていて驚かされます。

私には、ある疑念が浮かびました。人間の心はすべて解明される日が近いのではないか?
2日間あるうちの1日目の夜のレセプションで僕は同僚と「たましい」はあるか?という話題について話し始めました。

同僚は、「たましい」は存在すると、断固として主張します。
いくら脳科学が進んでも、人間の心は最後まで科学ではわからない、と言う。
科学は、立体物を床に投影した影のようなものを見てそれを研究しているのであって、いくら影を観察しても実体はわからない、のだそうである。
パーティーの席であったので話しは途中で切れてしまった。その場で論をつくさなかったのにWebで一方的に言うのは反則かもしれないが、今回はこの話題について考えてみよう。

たぶん、今、日本人の誰にきいても7割くらいの人は「たましい」は在る、と答えるでしょう。しかしその根拠を聞くならば、理由らしい理由は返ってこないように思います。
同僚の彼も、これといって根拠はないようだ。しかしどうしても「たましい」は無いと困るらしく、「たましい」があることを前提に生きているようである。そうでないと彼の考える世界観が崩れてしまうらしい。

私は、「たましい」は無いと考える。
私は受動意識仮説を支持するし、また「たましい」よりも前に肉体があると思っている。
私が自分の喜びや悲しみ、痛みや快感などの感情や感覚を観察してつくづく思うのは、感情や感覚は身体の現象だということだ。たぶん身体がなければ、喜ぶことも悲しむこともできないだろう。

自然-身体-精神-社会を貫く軸を探っている私にとっては「たましい」というわけのわからないものは邪魔である。
むしろ人間の精神は肉体そのものであり、肉体は自然そのものであると割り切り、自分自身が透明なメディアになったほうがスッキリする。「たましい」という背後世界への接続を仮定するよりはずっといい。私は人間に謎を残していたくない。

とはいうものの、リアルな喜びや悲しみは、そのものとして絶対的に私たちに与えられているのであって、私は決してそれを幻想だとシニカルにいうつもりは無い。私は人間の尊厳を陥れるようなことはしない。むしろ我々が見て、聞いて、考え、また言語や表情やモノを交換する活動、愛したり憎んだりする活動は、特別な価値であってそれはそれ自体に意味がある。そうでなければ芸術などやっていない。芸術の直接の動機は感動だ。感情的な質の強度だ。そしてそのことを行動の原理として行っている。

いや、仮に「たましい」が存在するとしても、その「たましい」なるものも、それを存在させる世界も、自然そのものなのだから、科学で解明できるかどうかは別としてそれも素直に受け入れるべきものである。そして、その「たましい」なるものはどんなものなのか、私は真に納得したいと思う。

たぶん、人間は自分の世界観の物差しにあわせて世界を解釈しているし、私もその例外ではない。
結局私は、そのように考えたいと思っているからに過ぎず、他の人と同じである。
「たましい」があるか無いかということは、その問い以前に、どんな世界観を前提として生きているのか、そして、それは何故そうなったのか、そのことを問わなければならないだろう。


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2010年9月11日土曜日

千代田芸術祭「3331アンデパンダン」公開講評会にいってきました


マイクを持って講評する中村政人氏(中央やや右)、保坂健二郎氏(その右の白Tシャツ)、いとうせいこう氏(その右の黄色シャツ)


会場で撮影した作品


今日は千代田芸術祭「3331アンデパンダン」の公開講評会にいってきました。
300を越す作品。160人近くの出席者。
会場は人垣が出来ていて熱気に包まれていました。

出席者一人ひとりの作品を講評していったので
途中で休憩をいれて終わるのに7時間近くかかりました。
4時半まで ゲストのいとうせいこう さんと、国立近代美術館の保坂健二朗 さんがいたのですが
その後は3331統括ディレクターの中村政人さんだけでやりました。

作品は玉石混合、年齢も19歳から70歳まで多彩です。
長時間にもかかわらず、どんな作品でも真剣に、ひとりひとりを励まし、
アドバイスを与える中村政人さんの姿勢は素晴らしいと思いました。

アンデパンダンの熱さを感じた日でした。

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2010年9月9日木曜日

新作 出品です。


クリックして拡大してご覧ください。 上の方にあるのは無数のヒトの顔です。

本日より開催されている千代田芸術祭「3331アンデパンダン」に参加します。 9月11日の公開講評会には、私も行きます。
私の出品作は90cm x 180cm のコラージュ。

タイトルは「滝」
いまや人間の身体はバラバラになっています。
医学は、人間を分子レベルで分析します。
このモダニズムはとどまるところを知りません。
しかしそれは否定すべきものでもありません。

私は自然-身体-精神-社会をつなげたいと思っています。
したがって、バラバラになった身体を、一気に自然現象に昇華したいと思いました。


この作品は増殖します。無限に広がります。
次々に縦横にひろげていきます。どんどん広げます。無限に広がる作品の最初の2枚です。
そしてどの部分でも売ります。欠損した画面は、また別の画面をつくって補います。
そのような生物の増殖そのものになること。それをしたいと思います。


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2010年9月8日水曜日

神輿を担いだ -感覚で捉える 神輿論ー

生まれて初めて、神輿(みこし)を担ぎました。 隣町の祭りなのだけれど、子供がそこのお囃子に入っているので、 妻を通じて半纏を借り、股引き(ズボンみたいなもの)などを買って参加しました。
格好だけは決まったが・・・娘と2ショット

帯を腰骨の上から締めると、丹田のあたりが締まり、 体が安定して動きやすいです。なるほど、これが江戸の身体基礎か、と納得して・・・
重いのなんの・・・
さて、神輿を担いでみたものの、見るのとやるのは大違い。 重いの何の・・・。 肩はゴリゴリする。肩甲骨がギリギリと音を立て、軋むように痛む。 腰でささえ、足を使ってもちあげる。上下に弾みをつけるためにふくらはぎが痛む。 一人で担いでいたら5分ももたないだろう。 ところが、「ソイ!」とか「サー」とかの掛け声とともに皆で息をあわせていると 不思議に持つことができる。

ここのお祭りは途中で休憩しながら、午後1時から7時まで、何と6時間の長きにわたって町中を練り歩きます。こんなに長いのは珍しいのだそう。 真夏日なので汗だくです。 全員で息をあわせて神輿を上下に振ります。身体が接触する一体感。 そして祭りが終盤になると、無我夢中になるトランス状態。
この精神的充実感は、何者にも代えがたい。

いうまでもなく神輿は神の乗り物です。
大地を踏みしめ、神を背負って立つという象徴的意味。
神を担ぐという名誉。
痛みに耐えてグッと力を込めて持ち上げると、自分の身体をいやおうにも確認できる。
上から棒で押さえつけられるのを跳ね返すには、下半身の鍛錬が必要だ。
そして全員で息を合わせて持ち上げる、他人の身体もいやおうなく意識される。
何より、一歩間違えれば事故が起こりかねない祭りを、確実に実行する地元住民組織。
これこそ、私の思う、自然-身体-精神-社会の融合する場所である。

昔の農村と違い、いまや生活形態が多様化し人々は別々の仕事をかかえ、皆別々の事情を抱えている。しかし運良く私の家の近くの商店街では、この祭りが歴々と存続してきた。ベッドタウンと化した町や、過疎に苦しむ地方では、このような祭りを行うことは無理だろう。 この東京の一地域でおこなわれている祭りも、やや町の現実から遊離しているように見える。いまでも「村人総出で」という訳ではない。祭りを楽しんでいるのは、住民の中でも一部のようだ。
このような祭りの精神的な意味をより高め、真に現代に復活させるにはどうしたらよいだろうか・・・。

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2010年9月6日月曜日

歴史家 保苅実氏の写真展が開かれています。

池袋の立教大学で開かれている「保苅実 写真展 『カントリーに呼ばれて』」に行って来た。
立教大学
7号館前

会場の様子。
写真展開催の詳細はこちら
http://joha.jp/?eid=113
保苅氏は写真家ではない。オーストラリアのアボリニの村に滞在し
そこで暮らす人々から歴史伝承を聞きだした歴史家である。
彼の言説関してはこのサイトの右の方にリンクがある。
私はこのサイトで「歴史的身体」というものを知った。

歴史は過去にあったもののことではない。
現在いる人間が身体を通じて作り出しているものである。
「歴史する」という動詞を彼は使う。

保苅氏の著書については、前に私のHPで書いたことがあるのでそれをリンクします。
http://www.te-tajima.com/Books/hokari_kitsune.html

彼の大胆で、しかも自らの身体によって実践した歴史認識は、
歴史学のみならず、いわゆる先進国のありかた全体に、いや国際社会全体に
インパクトをあたえるような類のものであるはず。

2004年にわずか32歳で夭折したのが本当に悔やまれる。

写真展は保苅氏が、アボリジニの村で暮らしていたときの写真と、それに関連する著作からの言葉で構成されています。
サイトや本で読むのとはまた違った感じがあります。
会場では保苅氏の生前を知る人たちのインタビューも流されていて、これが興味深い。
リュックに這っていたアリをヒョイと捕まえて「これは食べられるんだ」と食べてしまう保苅氏自身の映像も入っています。
オーストラリアで撮られたらしいビデオだ。無精ひげを生やしているが、人懐こそうな
そしてイタズラ好きな感じの、ある意味で少年のような男の顔だった。

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2010年9月2日木曜日

バリ島にて


バリの男性舞踊「バリス」。 バリ島一の踊り手といわれるアノム氏の息子の舞踊。子供ながら見事。




バリのポピュラーな乗り物、バイク。





現地でお世話になった氏家慶二さんの作品。 手前の塔と奥の塊状のものがそれ。


これは家の給水塔。バリの家の給水塔はみんな家のように屋根がついている。私には精霊の住みかのように見える。


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