2010年7月31日土曜日

緑と水の波紋

大きく拡大して観てください

2010年7月25日日曜日

暑い日、池に氷塊を投げ込み、氷片を飲み込んだ。





暑い日だった。

茹だるような公園の池に

私は氷塊を投げ込んだ。

氷はゆっくりと溶けていった。

そして

私は氷のかけらを飲み込んだ。

氷は私の胃の中で

ゆっくりと溶けていった。






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暑い日の亀



暑い暑い日が続いています。
公園に行って池で泳ぐ亀を撮ってきました。
この日の練馬区の最高気温は36度。
爬虫類は温度が高いほうが動きやすいので快適なのかもしれないが
我々哺乳類は茹だるような暑さだ。
池の水面近くの水は、水というよりお湯だろう。
スピーカーもONにして、蝉の声も聞いて欲しい。
画面には時々トンボも入っています。

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2010年7月19日月曜日

自然-身体-精神-社会をつなぐ





強力粉,竹炭パウダー



私は絵を描いているのではない。
自然-精神-身体-社会を結びつけているのだ。

私は食べ物を使うことによって自然-身体をつなぎ
行為をなすことによって身体と精神をつなぎ
発表することによって社会につなぐ。

だから、出来あがった画面、は問題にならない。
この行為を成すことが問題なのだ。

私は身体の内部感覚を、手の感覚を通じて壁に貼られた紙に直接つなぐ。
だから「絵を描いている」のでもなく、「モノを制作している」のでもない。
自然-精神-身体-社会を結びつけているのだ。

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2010年7月17日土曜日

村野四郎の言葉

 「もしも実在というものが、誰の感性や意識とも直接にふれることができるものなら、詩というものなどはいらないだろう。いやそのとき、ぼくらすべては詩人になるはずである。しかし実際には、ぼくらはどんな実在をも見てはいないのだ。ぼくらが見たり、きいたりするものは、単にぼくらの功利的行為の手先として、もろもろの感覚がえらんでくれたものにすぎない。実在の本質のうち、実際にぼくらの実用に役立つもの以外は、ことごとく抑圧されてしまっているのである。知覚のはたらきは、或る型にはまって、事物は初めから、ぼくらにどう利用できるかを目当てに分類されてしまっているのだ。ぼくらが知覚するのは、事物の真相ではなくて、むしろこの分類なのだ。ぼくらは事物の相をみるのではなくて類型を見るにすぎないといわれる。こうして人間意識の類型化は、文明がその物質的条件で、ぼくたちを圧迫すればする程、その度合は進んでいく。かくして「存在忘却の夜」は深まっていくのである。」
詩集〈亡羊記〉 「後書」 より
「村野四郎詩集」 思潮社 収録



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2010年7月16日金曜日

呼吸入門



呼吸をしなかった日はあるまい。
呼吸の仕方を教わったこともない。
呼吸しなければ死んでしまう。
しかし呼吸は他の内臓の動きと違って意識して止めたり速めたりすることができる。
命をつなぐものであるはずなのに、自分で制御できる。
だから呼吸は、肉体と意思の間にある。


著者の齋藤孝氏は明確に言っている。「呼吸は身体と精神をつなぐものである」と。

日本には身体の文化があったと、齋藤氏は主張する。
腰肚(コシ・ハラ)の文化である。
丹田にある身体の中心感覚、まっすぐ立つ、歩くなどの技。
この豊かな身体文化は、長い時間をかけて培ったものであるが。
昭和初期に軍国主義と結びつき、極端な精神主義となった。
そして戦後、日本の豊かな身体文化は壊滅した。
いま目立つのは日本人の姿勢の悪さである。


保守の論客と言われている人たちの言うことを聞いていると
日本の伝統や文化に言及している場合も、説教臭い。
外国に対抗して、日本人であらねばならないというような
何か観念的なものを感じる。

齋藤氏は、ずたずたになった日本の身体文化の断片を拾い集め、
自分の身体を通じて復活させたのである。

身体を精神の結合は、観念や直観という類のものではなく
技・技術なのである。

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2010年7月5日月曜日

身体の意味次元

身体にはいくつもの次元が突き刺さっている。

身体をめぐる問題の系列にさまざまな次元がある。
考察を深めるために、すこしそれらの問題を整理してみよう。


自然としての身体
身体はもっとも身近な自然である。何も海や山に出かけなくても自然は自分にぴったりと寄り添っている。体内でおこる様々な現象はまさに自然現象そのもの。身体は地球を作っている物質と全く同じ成分で成り立ち、基本的な物理作用も全く同じだ。

進化の歴史としての身体
僕らの身体は、地球の生命誕生以来、脈々とつながってきた進化の歴史の一断面である。身体の中に地球の歴史が入っているといってよい。 内臓の配置もその複雑な機能も、進化の試行錯誤の驚くべき成果である。


見えない身体
目の裏側には視神経があるのだが、私たちはその存在を意識することはない。頭痛の時以外は、脳の存在を意識することもない。咀嚼、嚥下、胃の満腹感、呼吸などは意識できるが、血液循環、腎臓や肝臓の働きは意識できない。身体は、闇であり、外部であり、謎である。自分の身体よりも、目の前にある物のほうがはるかに良くわかり、確かに認識できる。


感覚の源泉としての身体
私たちは、感覚を外部から、または内部から与えられるものとして
その発生の源泉として、身体を認識する。
皮膚に触るものがあると、接触感覚の源泉として皮膚を発見する。
食事をして胃が膨れると、いっぱいになった感覚の源泉として胃を発見する。
身体は絶えず、感覚の源泉なのである。



医学的身体 分子的身体
近代医学は解剖から始まった。
何と何がつながっているのか、何かの作用の原因は何か、その機械的な理解が近代医学なのである。病気があると、内臓の機能不全とか、菌とかウィルスなどの実体のあるものの作用を発見してきた。その網の目は、着々と整備されここ半世紀は分子のレベルで説明されてきている。まさに身体は分子のレベルに分解しているのである。

健康維持の対象としての身体 または持病を持つ身体
健康維持の努力または病気の話は、どんな場合でも人々の興味の対象である。このことは現代の人々が、どれほどこのことに関心を持っているかを表している。

見られる身体、他者との関係としての身体
幼児が鏡を見ることから、自分を一個のまとまりのある主体として認識するという。
他者として認識され、そして他者との関係によって、我々は一個の主体となる。自分の身体認識も、他者を抜きにして語れない。他人から見られていることについて、私たちは自身の身体について特に気を使うのである。

権力的身体 管理される身体
学校がその好例だが、制服を着用し、出席番号で呼ばれ、気をつけ・礼によって授業をし、服装、態度、絶えざる試験による格付け。こうして生徒として相応しい態度物腰を身に着けた主体ができあがる。また社会人となると、スーツに身をつつみ、就業規定によって時間的・空間的に管理される。近代とは、近代の権力とは、このような身体管理のテクノロジーの発達に他ならない。

記号的意味を持つ身体
身体は記号が書き込まれる格好の場所である。まず名前がある。服装、刺青、化粧、髪型など、さまざまな記号によって人間を区別してきた。江戸時代には服装によって身分・職業が判別できた。
もちろん現代でも人々は好むと好まざるとに関わらず記号を身にまとう。女性または男性であることを強調する身なりの記号、仕事なのか休暇なのかの服装の記号、持ち物、時計、服など、あらゆるものが記号的意味を持つ。

・・・これで全部だろうか。いや、まだ、まだありそうだ。
思った以上の大変な作業だ。身体には非常に多くの意味がある。
後半になればなるほど、悪臭ただよう身体論になっている。社会が身体を生産の道具として利用することを前提とするためである。もちろん、記号化は社会的生物としての人間にとって本質的なことである。しかし、現代の社会は記号化によって身体を取り囲んでしまい、「自然としての身体」「進化の歴史としての身体」「感覚の源泉としての身体」と、あまりにも乖離してしまうのである。

だが、もう一つある。 希望の持てる身体のあり方だ。
文化的身体
これは、瞑想やヨガ、東洋医学の取り組み、呼吸法、アメリカ原住民らの儀式、などに見られる身体の使い方、身体を自然や感覚につなげる働きをする文化である。
様々な意味の絡まる複雑な身体は、よく練られた技を通じてしか本来の姿に戻ることはできないのである。このような身体文化が、記号化と同じくらい重要な意味を持ちうる社会になることが必要である。服装や持ち物と同じくらいに、身体の内面が重視される社会にすることが、私の目的でもある。



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