2009年10月27日火曜日

細胞分裂の感覚

細胞分裂。
Youtubeで動画をさがしてみた。
なるべく感覚に訴えそうなものを。





どうです?細胞分裂って、中学か高校の生物で教わったものでしょう。
しかし、教科書の中でおこっているのではありません。今、この瞬間もあなたのカラダの中でブチブチを起こっているのです。
そういう自覚はないでしょう。私たちの哀れな意識は。
カラダがやっている大変な苦労を何も知らないのです。

動画をみていると、細胞はなんだか非常に苦労しているように見えます。

人間が人間を生むのも大変なことですが、細胞は自分が分裂するという大変なことをやっているわけで、分裂中は遺伝子の損傷も受けやすく、細胞としては一世一代時間です。
細胞分裂の感覚というものは、苦しみと恍惚が入り混じった、なんともいえぬ瞬間なのでしょう

2009年10月21日水曜日

心のありか

この前のブログで、「心なんて無い」ということを書きました。
読んだ方は、この人は無味乾燥な物質的な考えをもっているのではないかと受け取られたかもしれません。
しかしそうではありません。
私自身の強烈な体験から、そう結論したのです。

私は中学生くらいのときに、神経症を患いました。今では「パニック障害」という言葉でいわれているもので、最近では長嶋島一茂さんが、その病気の体験を語っています。
私の場合は、乗り物に乗れなくなってしまうというものでしたが、長嶋さんもそうだったようです。

この病気の特徴は、発作を起こすと過呼吸になって気分が悪くなり、ひどくなると気を失うというものです。私は気を失ったことはありませんが。
この病気は心の使い方が適切でないために起こります。
発作はなぜ起こるのかといいますと、
不安な気持ち、いつ不安発作がくるかわからない不安な気持ち。それに気持ちを集中してしまうとますます不安になり、心臓が高鳴り、呼吸があらくなり、そして発作がおこる・・・・
つまり、「発作がおこるのが怖い」という気持ちによって発作がおこるのです。
この矛盾。。。

私は、森田正馬という人が創設した療法で直しました。森田療法の特徴は、「あるがまま」ということです。なんのことはありません。
不安があってもそれがあるがままにして、日常生活を送れというものです。
不安があってもいいのだ。たまに発作が起きてもいいのだ。それで生活ができればいい。いつのまにか不安は消えていく、、、というわけです。
しかし乗り物に乗らなければならないときは・・・・大変です。・・森田療法ではそれを「恐怖突入」といっています。
恐怖に突入し、目的を遂げる。この場合はたとえば、電車に乗って目的地にいき帰ってくる。それだけのことです。しかし神経症の人にとっては、命を掛けた戦いなのです。

こうして、私は何度も恐怖突入し、そのたびに悲壮な決意と覚悟をもって目的を遂げてきました。何年もかかって、やがて症状は緩和していきました。

私は学びました。心には実体がないのだ。不安や恐怖には実体がない。あたかもそれが実体であるかのようにそれを凝視すると、ますます不安になり、ますます恐怖が大きくなり、自分で制御不能になるのです。

人間は怒りのために人を殺したり、悲しみのあまり自殺したりします。そのような極端な行動をとる契機として感情が語られるとき、あたかも感情が実体であるかのように語られます。そうではない。感情に基づいた行動をとるから、それが殺人や自殺という実体となって現れるのです。

2009年10月13日火曜日

スピリチュアル文化

スピリチュアル・カルチャーともいうべき潮流が今すごく盛んだ。

江原啓之氏の「スピリチュアル・カウンセリング」が大変な人気を得ているなど、前世などの考え方がかなり一般化しているようだ。

オウム事件の反省もあってだろうが、体系化・組織化された宗教には誰しも抵抗があるようだが、その代わり垣根が低いスピリチュアル文化が広く普及している。

ということは、現代日本の心的な風景は、オウム事件があったときと同じ、またはそれ以上に悪いのでしょう。共同体の喪失、人と人との絆の希薄さが一般化し、孤独で浮遊した現代人が不安や不満をかかえている。

僕はスピリチュアル文化にはかなり胡散臭さを感じているし、前世とか霊とかを無条件に受け入れる気にはなれません。
多くの人がそういう物語を必要としているということには、何か違和感を感じます。

ニューエイジ・サイエンスというのも、ちょっと・・・

スピリチュアル文化の根本には、心というものが何かの実体、または実体的な世界を作っているという発想があると思いますが、そもそも心ってなんでしょう?

心なんて、あるんでしょうか。
在るとしたら、どこにあるんでしょうか。

いや、お前は心があるはずだ、その証拠にこの文章を打っているではないかと反論する方もあろうと思います。
確かに何かの一連の現象が私にこの文章を打たせていますが、だからといって心という実体があるとは限りません。

実は心という実体は無いのでしょう。
心的な現象があるだけで、私という人も、私の心というものも、無いのでしょう。
楽しんでいるとか、怒っているとかの状態はあるのでしょう。しかし心という概念的なものは無いのです。
たとえて言えば気象ともいうべきもので、雨が降ったり風が吹いたりする現象はありますが、「気象」という抽象的な概念はどこにも無いのです。

心のほうもたくさんの種類があります。怒っている、悲しんでいる、笑っている、考えている・・・などなどその時々でいろいろな状態があります。
私というものも、色々あります。夫である私、会社員である私、通行人である私、アーティストである私、男である私。。。いろいろな私があり、どれも違います。だから、私という括り、私という作り物をこしらえて私の同一性を解釈するわけです。

昔と違って地域の共同体が希薄な今日、浮遊する現代人の精神は、私とか、私の心とかいうものの保障をもとめて、スピリチュアルの世界に駆け込むのでしょうか。

2009年10月10日土曜日

読んだ本

「哲学入門」  ヤスパース 草薙正夫訳 新潮文庫
高校2年のときに夏休みの課題図書の一つとして読んだ。
ヤスパースの著作の中では易しいといわれているが、やはり少し難しい。
今再読してみるとヤスパースの哲学する者としての態度は襟を正したくなる。
私の座右の書にしたい名著

「オウム帝国の正体」 一橋文哉 新潮文庫
オウムと暴力団の関係を描いたルポ。

「村野四郎 詩集」 彌生書房
アンコウの解体を描いた詩が教科書に載っていたので有名な詩人。
身体感覚・内臓感覚の描き方が秀逸。
私はこれも座右の書に上げたい。

「オウム真理教事件 完全解読」 竹岡俊樹 勉誠出版
「田島鉄也はどのように生きているか」思索篇をご覧ください。

「99.9は仮説」 竹内薫 光文社新書
ベストセラーの一つです。
ホーキングが虚時間を導入したいきさつが面白かった。
彼は計算のつじつまがあえば良く、虚時間が何かなんて考えもしない。
そもそも時間とは何かとか、どうでもよい問題ということ。
この世が実在しているかということには頓着しない。この諦観。
まるで荘子の「胡蝶の夢」を地でいってる。

「ブラジルの混沌」   ㈱アルク
この本借りるのは2度目です。
カーニバル、サッカー、アマゾン、ブラジリア近代建築。
矛盾に満ちた国の魅力を伝える本。
ブラジル現代美術の紹介が後半を占める。