2009年2月25日水曜日

クロソウスキー

ピエール・クロソウスキーの「かくも不吉な欲望」を読んでいるが、悲しいことに
全く理解できない。
難しい本はたくさん読んできたが、これほど理解しがたい文章は初めてだ。
訳者も後書きにて、「クロソウスキーの文章は非常に読みにくい」と言っている。
しかし、読みにくいということ以上の何かがある。
文章全体から、何かタダならぬ気配が漂っており、容易に通り過ぎることを許さない。
狂気の上に紙が一枚敷かれているような、言葉は狂気との取引であることを知っているような、確信犯めいた書き方だ。
これは謎だ。

2009年2月15日日曜日

東京ディズニーランドにいってきました



先日、4歳の娘と妻と東京ディズニーランドに行ってきました。
それはそれで非常に楽しいことであり、娘がはしゃいでいるのは、親として喜ばしいことです。
娘との時間はとても楽しかったと正直にまず言っておきます。

それはそれとして・・・

数多くはないですが、東京ディズニーランドには過去数回行ったことがあります。そして、毎回、何とも言えない違和感を感じてきました。それは、遊園地だから、子供向けの施設だからというものとはまた違った種類の違和感です。今回、その違和感の正体が解ってきました。

それは、東京ディズニーランドは、この現代社会そのものであるということです。
つまり、現代社会に生きていて感じるのと同じ違和感を、東京ディズニーランドに行くと、より強く感じるということです。

その特徴は、次の2点に集約されます。

1.全てが人工物(作り物)であること。
2.全てが記号であること。

アドベンチャーワールドや、ウェスタンワールドと呼ばれる地域に特に顕著に見られます。岩、家、森にいる動物やインディアンなど、全てはハッキリとそれとして認識させるように作られています。
そして、岩も家も動物も、驚くほど「良く出来ている」のです。その製作者の努力には感心するのですが、いささかうんざりさせられる代物には違いありません。
アミューズメントパークというものは、そもそもそういうものです。記号的な造形物によって人々の気を引きつけるものです。
しかし、東京ディズニーランドの懲り方は、並の遊園地のそれではありません。どこから見ても古い材木の家が、コンクリートに着色したものであったりするのです。


しかし翻ってみると、それは、記号と人工物に囲まれた我々の生活そのものです。
東京ディズニーランドに行って感じるのは、このぞっとするほど良く出来た仕組みを目の当たりにさせられるからです。
はたして僕たちの意識や感情も、この「良く出来た仕組み」から本当の意味で自由だと言えるでしょうか。



今回、2つの「発見」をしました。

ミッキーマウスと握手した時のこと。手袋の中に確かに人間の手の感触を感じました。非常に小さい手でした。恐らく女性でしょう。ミッキーの身長は150cmくらいです。小柄な女性が入っているのだと思います。着ぐるみの中に人がいることなど、わかりきったこととはいえ、確かな身体を感じたことは、一つの「発見」ではありました。この人は1日に何人の人に愛想を振りまくのでしょうか。大変な仕事です。「頑張ってねミッキー」と私が言うと、胸に手を当てて感謝しているような素振りをしました。

パレードを待っているとき、パレード通行路に警備員が立って、鋭い目を観客に向けていました。テロや(秋葉原で起きたような)無差別殺傷を警戒してのことでしょう。警備員がいるということで、潜在的な凶悪犯に無言の圧力をかけているのでしょう。