2009年12月30日水曜日

古代人の感覚的な自然解釈

いにしえの人々は、自然界を独自に解釈していた。
もちろん稚拙な解釈であるが、私はそこに
感覚的なリアリティを感じる。

たとえば、雷、稲妻である。

ある解釈によると、稲妻は天の怒りであるという。
稲妻に打たれて死ぬものは、天罰が与えられたのである。

ある解釈によれば、稲光は男性神である天が、女性神である大地に
射精することであり、豪雨が精液にあたる。
かくして大地からは植物が芽吹く。

ある解釈によると、稲妻は卒中の類比である。
大気が重くなる-思念が落ち着かなくなる
雲が沸き起こる-腹部が膨れる
稲妻がひらめく-目がらんらんと光る
雨が降る-口から泡をふく


また、人体を自然界になぞらえて説明する説も多い。
肉は土、骨は岩石、血管は河・・・という具合に。

アリストテレスは四元素説を提唱した。
さまざまな物体の特性を決定づけているのは
「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、
これらの基礎には火・空気・水・土がある。

これらは全て、「感覚で捉えられる」ものだということに
ご注目いただきたい。

古代の人々が考えたのは、あくまでも感覚で捉えられる解釈である。
もちろん間違った考えであるが、私はそこに或る説得力を感じる。

ニュートン以降、「自然は数式で書かれている」という科学の確信が生じ
それは目覚しい成果をあげてきた。
そして現在でも、その途上にある。

しかしそれによって我らは自然との感覚的なつながりの機会を失った。
抽象的で物質的な、無味乾燥な自然の理解---
---それが僕らの生活している世界の姿だ。

だが今私は、現代科学で明らかになったところの無味乾燥で物質的な自然の姿に
感覚的な解釈を加えたいと思っている。

そうすることは必要と思うし、それは可能だと思っています。

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2009年9月撮影

2009年12月27日日曜日

視床下部について


大いなる私、もう一人の、私の背後に潜み、私を支えている実体である、私
それが身体、身体の機能です。

さて、身体機能は交感神経と副交感神経という2つの神経系統に支配されています。
この2つの神経の束は、脳から脊髄を通って内臓やらなにやら身体のあらゆる箇所につながっています。身体の命令系統です。

交換神経は「シャッキリ神経系」とも言うべきもので、戦い、喧嘩、仕事中など、シャッキリしていなかればならないときに、身体をアクティブにします。
副交感神経は「マッタリ神経系」とも言うべきもので、睡眠、リラックス、排泄など、のんびり、マッタリするときに働く神経系です。
身体機能は、この2つの神経系統の綱引き、バランスによって成り立っています。

そして、これら2つの神経系統がつながっている、身体機能の親玉が、視床下部という脳の中心付近にある、小指くらいの小さな部位です。

小さいながら、とてつもなく重要な働きをします。

興奮や恐れによって、心拍数を早めたり、血糖値を高める。摂食行動を調整する。性行動を調整する。体温をコントロールする。体内時計を司る。などなど。

およそ自律神経と呼ばれているものは、視床下部を司令塔をしています。

フロイトがエスと名づけた、性衝動や攻撃性が詰まっている心理層も、この視床下部が深くかかわっているのでしょう。

私たちは、何か強烈な経験や、激しい疲労について語るときなど、「からだの芯から」という表現をしますが、まさに視床下部こそが、「からだの芯から」の機能そのものなのです。

さて、最近、自律神経失調症などという病気が一般的になったので、身体の生理学的機能、メカニックとしての身体の理解や取り扱いの方法は、広く知られています。早寝早起き、朝食を摂る、日光を浴びるなどなど・・・。

身体機能の医学的な、メカニックな理解と取り扱い方法は、ずいぶん進歩しました。そのために多くの病気が治るようになり、また取り扱いを間違えなければ、心身ともに健康でいられることは間違いないでしょう。

しかし。。。しかしです。。

だからどうしたというのか?
このような身体機能の医学的なメカニックな理解が、身体を矮小化させ、身体を即物的な実体に陥れたのではないか?
つまり、組織や神経が、解剖学的に目の前にあるように解説されることにより、我々は身体を解剖学的にしか観られないようになってしまったのではないか?

皮肉なことに、医学の進歩こそが、感覚的な身体理解を妨げる、諸悪の根源となってしまったのではないか?
身体という謎について、解剖学の目が明らかにした代わりに、我々はもう一つの感覚の目を失ってしまったのではないか?

このことは、私がこのブログを書く長い旅の始まりを意味します。次回以降で徐々に明らかになっていくでしょう。

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2009年12月23日水曜日

乾布摩擦と冷水摩擦

寒い日が続いていますが、
そういえば、乾布摩擦とか冷水摩擦とかいうものが昔
あったなあ。と思い出しました。

今では殆ど死語となっていますね。

磯野波平が庭で上半身裸になってゴシゴシしている
情景を思い出します。

庭のある家が少なくなって、乾布摩擦など絶滅したのかと思いきや、
わが国の乾布摩擦の伝統は、場所を室内に移し、
細々と、しかし脈々を受け継がれているようです。
ネットで「乾布摩擦」で調べてみると、実にたくさんの人が
乾布摩擦を実践していることがわかります。

私も、先ほど思い立ってやってみました。
乾布摩擦では刺激が足りなかったので
風呂で使うネットタオルを冷水に浸し、硬く絞って
カラダをこすりました。
やってみるとなかなか気持ちが良いものです。
終わってみると皮膚が程よく刺激され、
寒いところに出るのが億劫でなくなります。

「感覚で世界を捉える」観点でいうと、
これは外気と身体の感覚的つながりを回復するということだと思います。
夏は薄着なので人の皮膚が外気にさらされますが
冬は厚着になって外気にさらされなくなる。

秋から冬になるころ、室内と屋外の温度差が大きくなってくるのですが
身体はのんびりしているので、日に日に寒くなっているのに
気温の変化に追いつかない。
結果、風邪を引く。

乾布摩擦や冷水摩擦は、身体に外気の寒さを覚えこませる効果があるのでしょう。

私たちの意識が寒いと感じても、身体は直ちに
それに適応してくれないのです。
身体は意識と違う、別の知性であり、
私たちの意識は、もう一人の別の偉大な人物(身体)の家に間借りしているようなものです。

しかしこの人物(身体)は案外愚鈍なので、意識が「寒い」と思っても、すぐに反応してくれないのです。
この人物(身体)は、目も見えず、耳も聞こえない。
手や顔が寒いくらいでは、体温調節機構をフルに働かせてくれないのです。
だから「今は寒いですよ」などとこの人物(身体)に教えなければならないのです。
乾布摩擦は、身体との対話をするための先人の知恵なのす。

この人物(身体)は非常に興味深い人です。すこし突っ込んで研究してみようかと思う。

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近所の空き地

2009年12月20日日曜日

辻井伸行はどう感じているのか?



「ヴァン・クライバーン・コンクールに初めて優勝した日本人」「全盲の」という2つの枕言葉が付く、辻井伸行氏。
爆発的人気はまだまだ続きそうだが、
彼の奏でるビアノは、これまでのどのピアニストとも違う何かを感じる。

「純粋」「軽やか」「透明」という言葉が出てくる。

かつての名演奏家は、「知的」、「熱情的」、「力強い」、など、迫力があったのだが、辻井氏はどれとも違う。

この、「川のささやき」というオリジナル曲を聞けば、誰でも容易に川の流れる様子を想像することだろう。川の流れている「映像」や、川の流れている「音」を想像するというよりは、聞く人自身が川そのものになって、水となって流れており、小さな水のしぶきを上げている。。。そんな風になることだろう。
この幸福感は、世界とつながっている幸福感である。

もちろん、このような「音世界」は、辻井氏が全盲であったからこそ生まれたものだと思う。
彼は川そのものとなっている。
ピアノによって川を表現しているのではなく、ピアノの上で、彼は川となっているのである。


彼は子供のころ、母親に「今日の風は何色?」と聞いたことがあるという。
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眼が見えない伸行に色というものを理解させるために、
「りんごの赤」「バナナの黄色」などと教えていました。
すると伸行は「じゃ、今日の風はなに色?」と聞いてきたのです。
眼が見えない伸行にとっては、
大好きな食べ物に色というものがあるなら、
同じく大好きな風に色があっても不思議はありません。
(辻井いつ子著「今日の風、なに色?」より)
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全盲の人が色を理解することは無理だと思うのだが、
「色」というものは文字通りの色彩という意味に使うばかりではありません。
「音色」という言葉があるように私たちは音にも色があると感じます。

彼の感じている世界は、豊かな音色に彩られているに違いない。

「風が好き」というのも盲人らしい。風は触覚的な感触とともに、広さを感じさせ、
世界全体とつながっているような感覚になる。私が海に入って感じたことに似ている。

視覚は重要な情報源だが、他の感覚にくらべれば世界の実体そのものからはむしろ遠い。
入ってくる光の情報を、一度解釈しなければならないからだ。

辻井氏は、インタビューで、「一日だけ目が見えるようになったら、何を見たい?」
という質問をされたことがある。
(あるサイトでは、なんて失礼な質問をするんだと非難の嵐になっています。ちなみに辻井氏は
母の顔が見たい、という泣ける回答をしている。)
しかし、生まれつき全盲の人が一日だけ目が見えるようになっても、突然入ってくる光の洪水を
どう解釈してよいのかわからないはずだ。
生まれつき全盲の人が、角膜移植によって目が見えるようになると、最初は何がなんだかわからずパニックになり、中には再び目を閉じてしまって今までどおりの生活に戻ってしまう人もいるという。
視覚に頼って生活できるようになるためには、相当長い時間がかかる。
このように視覚は手続きの多い、複雑な感覚なのである。

もし、辻井氏が全盲でなかったならば、彼は視覚情報の処理に邪魔されて、世界にあふれている音色や触色やらを感じとることができなかっただろう。

プロのピアニストである以上「全盲の」という枕言葉は必要ないはず、という意見もあるようですが、「全盲」というのは彼の際立った個性であり、音楽家としての強みであると思います。社会的にはハンディですが、芸術家として世界の実相と向かい合うにはむしろアドバンテージであったといえるでしょう。

2009年12月19日土曜日

電磁波の海



人は光を見ます。
光を様々な色として識別することができます。

しかし、可視光はガンマ線から長波までの電磁波のごくごく一部で、
人間はこの中のわずかな波長の違いを色で識別することができます。
そんなことができるのは人間だけのようです。驚くべき能力です。

それでは、可視光以外のところは、人間にとって感じることができない、
砂漠のような領域なのでしょうか?
どうもそうでもないらしいです。

☆実は人間は電磁波を感じているらしい。
「電磁波過敏症」というものがあります。
身近な電気機器から発する電磁波で頭痛や不眠などになる症状のことです。
実は、人間は案外電磁波に敏感のようです。

☆「気配」というものは電磁波のことらしい。
電磁波は皮膚で感じるもののようです。
急に電磁波が変化すると、首筋や背中に「ゾクッ」とするような感覚を感じる人がいます。
音も聞こえないのに、「何かが動いた気配を感じる」というということはあります。
これは、人や動物が動く時に発生する、わずかな電磁波を感じることがあるという
ことなのでしょう。

☆電磁波を感知する能力は個人差が大きい。
人間は、視覚や触覚は、はっきりと識別することができますが、電磁波はその感知能力にかなり個人差があるようです。

☆犬は電磁波に敏感らしい。
あるTV番組で、主人が外出先から玄関に近づいただけで玄関に走っていく、特殊な能力を持った犬を紹介していました。
その犬は、嗅覚と同じように、電磁波もよく識別して、主人の発する特定の電磁波が判るらしいのです。
(もちろん、ぜんぜん電磁波を感じない犬もいる)

☆現代の電子機器に囲まれた生活は、気配、すなわち電磁波に「感じない」ことを強いているのではないでしょうか?
私たちは、時々静かにして、気配すなわち電磁波に「耳を澄ます」必要があると思います。
そのとき、私たちは、電磁波ノイズのあまりに多いことに気づくかもしれません。



俺は今日も生きている。。。。

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2009年12月14日月曜日

レベッカ・ホルン展にいってきました。



東京現代美術館のレベッカ・ホルン展にいってきました。

すでにレビューのブログがたくさん出ていますので、「レベッカ・ホルン」で検索してご覧ください。

レベッカ・ホルンは現代美術の第一級の作家であり、
その実力、センス、高名さ、どれをとっても超一流です。
私も昔ゲッゲンハイムの美術館の分厚いカタログを買ったほど敬愛する作家の一人です。

今回の展示にも身震いするようなセンスのよさ、
そして、背骨や睾丸をひっかかれるような
生理的な(快感のような嫌悪のような)
なんともいえない感覚を感じました。

しかし・・・
今、私の推進する「感覚で世界を捉える」観点でみると、
レベッカ・ホルンの作品群や方法は
密室の中でバラバラにされ、行き場を失った身体という感じがします。

身体や精神は見えない部分が多いのですが、
レベッカ・ホルンは科学的ともいえるような視点で
それを照明の元にさらけ出し、見えるようにしてくれます。

まるで、病気にかかった人が、
点滴のチューブや心電図のような機械につながれて
自分の肉体を再発見するような感じです

(それは、レベッカ自身が、長期入院の回復過程で
現在の作風を確立したということと関係があると思います。)

つまり、科学的・医学的な空間(実験室や病院)の中でバラバラにされ、
そしていまだにその実験室の中から出られないでいるのです。
いえ、出ようとも思っていないらしい。
冷たいメスや注射針が身体につきささるのを美だと思っているのか?


・・・・
と、ここまで書いて私は思います。
私はそこから確実に出ているか?
私の身体は、私の視点・感覚、そしてそれを表す作品は、
科学的・医学的呪縛から離れているか?


出ようとしていて、まだ出ていないのではないか?
いや、出ようとしている途中なのだろう。


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2009年12月10日木曜日

夜の森林

感覚で世界を捉える者にとって、
森林は非常に示唆に富む場所です。

特に夜の森林は。

冬は虫も鳴いていません。沈黙が支配する世界です。
沈黙?・・・・いや、そうではありません。

小枝が落ちる音。
わずかな風が葉を揺らす音。
地に落ちた枯葉が夜の冷気で少し膨れるときのすれたような音・・・・

夜の中に冴えた聴覚を広げると 、微妙な森の活動を感知します。

(この黒い画面の中に、曇りの夜空を背景にした木々が写っています。
拡大してよーく見てください。)

茫洋とした光を放つ曇りの夜空に照らされ、
木々が闇の中に掴み取れるかのように実体を晒しています。
闇が目の前に実体として立ちはだかっているようです。

そこは、「兆候」・「予感」・「気配」が支配する世界です。
感知できるか出来ないか、ぎりぎりの現象が無数にうごめく空間です。
私たちの感覚は、そのようにして、本来あるべきものに戻るのです。

それに対し現代は、「記号」・「情報」が支配する世界です。
私たちの「兆候」・「予感」・「気配」への感受性は、日々鈍くなっています。
精神は記号ばかりを追って社会の奴隷になっています。
感覚が使われないので、身体は精神から分離して
僕らの精神は疲れきってしまっています。
これが現代の病理です。

時には感覚を広い空間に広げ、感覚の流れる線を
確かめる必要があるのです。

多くの人はジョギングなどの運動をして、健康を維持し新陳代謝をよくしようとしています。
感覚も同じことで、滞った流れを良くしておくことが必要なのです。


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2009年12月8日火曜日

新作







もひとつ新作です。

コラージュで120cmx110cm

クリックするとでっかい画面になります。
よく見ればわかるように雑誌からヘアスタイルを切り抜いて貼ってあります。
一見抽象絵画のようにも見えませんか?

特殊撮影した太陽の表面のような自然現象を再構築しました。

これも科学や医学によってバラバラになった現代の身体表現の一つと考えています。


しかし私はバラバラになったことを悪く捕らえているばかりではありません。
バラバラになった身体をこのように一気に、直接的に自然現象としてすること、
そのことに希望を見出してもいます。

現代は科学によって、信じられないほど知識が増え、かつて迷信の中にいた人々の
精神生活を見通しのよい、晴れ渡ったところに連れて行ってくれました。

僕らの身体のバラバラさ加減は、そういった、科学によって拡張された精神世界全体を
一気に身体として再構築できる可能性をもっているのではないかと。
そういうものを目指すべきではないかと。
そう思うのです。


私の新作のもう1枚はこちら12月6日のページ


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2009年12月7日月曜日

河口龍夫展にいってきました


東京国立近代美術館の
河口龍夫展に行ってきました。(遅ればせながら)


人間のスケールを超えた時間、空間、感覚を捉えている作品群です。
たぶん、これほど的確に現代の感覚を捉えている作家はいないでしょう。

彼の作品は考古学、天文学、量子力学などの科学に裏打ちされ、
しかも感覚の奥深いところに訴えるように
よく工夫されています。

電流を利用したエネルギー、暗闇、途方もなく長い時間、光と物質、言葉・・・
さまざまな感覚や概念が身体を通過する体験ができます。

私の考える、感覚で世界を捉える ということを
まさに実現している貴重な人です。

すでに展覧会の模様はいろいろな方がブログに掲載しているので
詳細情報を見ようとすればweb上にいろいろな情報がありますが
やっぱり実作を見なければわからないです。

残念ながら12月13日まで、あと6日しかありません。
まだご覧になっていない方は、是非ご覧ください。


東京国立近代美術館 河口龍夫展


河口龍夫公式ホームページ



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2009年12月6日日曜日

新作 



新作ができました。

120x110cmのコラージュです。

タウン情報のフリーペーパーからネイルサロンの指の部分を切り取って貼り付けた。
左のほうは美容院の広告や女性誌のモデルのヘアースタイルのところを切り取って貼ったもの。

何かがぐちゃぐちゃと増殖しているようです。

現代の私たちの身体は、科学や産業(そしてもちろん私たちの仕事も)によってバラバラになっています。
私たちの身体感覚もバラバラです。

これは望ましいこととは思いませんが、私はそれならそれを使って一挙に自然の現象に昇華させようと考えました。
我々の時代の身体表現です。


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2009年12月3日木曜日

たなごころ


「たなごころ」とは、手の平の真ん中のへこんでいるところです。
「手の心」という意味なのだそうです。

私は何かを触覚で感じようとするとき、この部分でものを掴みます。

特に、手ごろな大きさの石などをこの「たなごごろ」でしっかりと掴むと、
感触が腕を通って肺や心臓のあたりまで到達します。

硬さや冷たさから、この石が出来上がったエネルギーの強さを感じ取ることができます。


また、周囲の空気や気配を感じ取ろうとするとき、この「たなごころ」を上にむけて
手をいっぱいに広げて感じ取ろうとします。

傍からみると滑稽でしょうが、まるでレーダーのように、または植物が葉を広げるように、
周囲の雰囲気を「たなごころ」に集めようとします。

「たなごころ」は東洋医学でも重要な部分らしいです。
私の感じかたでも、体の芯が露出しているところ、とでもいう感じがします。
つまり、体幹から腕をとおって、「たなごころ」で露出しているというような感じです。

似たようなところは、足の裏の「つちふまず」でしょうか。

皆さんもご自分の体の感覚を見つめて直してみてください。

2009年11月29日日曜日

海に入る

もう冬だというのに、今年の夏の話で恐縮だが、

数年ぶりに海に入りました。

新鮮な経験でした。



比較的波の高い日で、

波が引くと底に足が着くので体を自分で支えていられるのだが、

波が押し寄せて来ると体ごと持っていかれる。

抵抗しても無駄だ。

容赦なく体が水に翻弄される。


この海は、地球の全ての海とつながっている。

北極海にも、深海にも、海溝にも、海底火山にも。

体がダイレクトに自然につながっているように思える。



風を感じるときも、似たような気持ちになるが

水の力は圧倒的なので、さらにその感覚は強い。

体の幹にガツンとくる感じだ。



私の意思や身体能力でこの巨大な力に抵抗して、
自分をコントロールすることは出来ない。

自然のリズム、
そして自然と身体の関係、
波の動きに身を委ねそれを身をもって感じること。
波は、視覚や想像力ではなくて、

直接、体を揺さぶってそのことを教えてくれる。

私の身体や生命なども、
この大きな力の前では、微小なものに過ぎないのだろうとつくづくと感じる。
無情なことだが、それは真実だ。

この力に逆らおうとすると恐怖を感じる。
だが、身を委ねようとすると、むしろ安心感を感じる。



もう一度その感触を確かめたいのだが、残念ながらいまだにその機会を持てないでいる。

もう寒くなってしまいましたが、
海に入ることは身近に感覚的世界解釈が出来る例としてお勧めです。
来年の夏に是非お試しください。

(アップした画像はいずれも伊豆で撮影)


2009年11月22日日曜日

「境界で夢をみる」

前回、キツネにだまされる話を書いた。

キツネにだまされる時はどういう状況なのだろうか?

キツネにだまされるときは、人間は或る特別な時間・空間の中にいる必要がある。
あたかも蒸気のようにそこに包まれ、現実と夢の狭間のようなその場所に。

一人山道を歩く旅人が
娘に宿屋に招待され、お風呂に入る。(気がつくと川に入っている)
道端で饅頭を売っているおばあさんから饅頭を買う。(気がつくと馬糞を食べている)

どうやら幻覚、夢、催眠状態などと関連がありそうである。

だまされた人は大抵一人でいるときにだまされている。
人里はなれた山の中、人気のいない夜、または道に迷った時などに起こっている。
人間界と別の世界との中間地点、境界地点で起こるのである。

これはつまり
「境界で夢をみる」ということだ。


現代において、このような「境界」はどこだろうか。
人間界が広がったおかげで、そのような「境界」は日常の世界からだいぶ遠く離れてしまった。、
または忘れられたように片隅に追いやられている。


火星探査機が送ってきた火星の荒涼とした地表の映像を、眺めるとき。

http://buturit.dee.cc/kasei/Kasei_Tansa.htm#4

木星の気流のとてつもないスケールの大きさを思うとき





極微の世界の力学に思いを馳せるとき






あるいは、

高山に登って周囲を眺めるとき


夜明け前に自己の奥深くの記憶と向き合い、夜明けとともに現実の風景に出会うとき



そのとき、
私たちは、あの、時間が凍結したような、灰色の地点にいる。
過去も未来もない、あるいは過去と未来がすべて積み重なって投射されたような、その地点。
思考が停止し、あるいはもっと深いところで思考しているようなその地点である。
その蒸気、その雲の中にいる。



昔は、このような雲・このような「空間」・きつねにだまされる「空間」が文化的に確立していた。
人々には、きつねにだまされる「能力」もあった。

しかし最近、経済成長や開発が進み、いつの間にかその「空間」や「能力」が絶滅してしまったのである。

私は、その文化的「空間」や、「能力」を、現代の科学技術や感性と矛盾しない形で復活させたいと思っている。
そのためにこのメッセージサイトを始めた。
まだとても小さな力だが、やがて大きな潮流となり、文化の総体的な転換が行われることを願ってやまない。



2009年11月15日日曜日

キツネにだまされる空間

昭和40年以降、日本人がキツネにだまされなくなった。

哲学者の内山 節氏は、沢釣りが好きで全国いろいろなところに釣りに出かけ
宿屋や民家に泊めてもらって土地の人と話をしたそうである。
すると、キツネや狸にだまされる話が時々出てくる。

キツネにだまされるよくあるパターンは

饅頭だと思って馬糞を食べていた
温泉だと思って冬の川に入っていた

などのことである。

「それはいつのときですか」と聞くと、決まって昭和40年より前のことだという。

昭和40年、1965年といえば東京オリンピックが終わり、高度経済成長真っ盛りのとき。
農村から都市へ人々が流れ、農村の人口が減り、村の文化も途絶えた。
また農村も電化が始まり、暗い夜が急速に少なくなっていった。
人々の学歴も上がってキツネにだまされるなどという非科学的な話を信用しなくなっていった。

私の父に尋ねたところ、まあ、確かにそのころから変わったんじゃないかと同意していた。
父もキツネにだまされかかった経験があるという。

父が少年のころ、昭和21年だったそうである。
日照りの夏、家族で夜中に畑に水をやっていた。
夜も遅いので一人家に帰された。
月の無い闇夜である。父は家路の途中の桑畑で、不思議なものを見た。
40-50人の女学生が桑畑の中でワイワイ、ガヤガヤ遊んでいるのを見たという。
父は目の前の光景を何か不思議に思って、そこを通りすぎた。
あとで家族に話したところ
「キツネにだまされたんだ」といわれたという。

内山氏は、昭和40年以降、日本人に「キツネにだまされる能力」が無くなったという。
どういうことなのか。
かつて、自然と人間は一つにつながっていた。区別するものは無かった。
その中で人々はキツネにだまされながら生活していた。
ところが戦後、都市化、開発、文明化の波が押し寄せた。
森林のほうも里山から木材をつくる伐採林に変化していった。
それが自然と人間を分けた。
その臨界点がだいだい、昭和40年だったのである。

昔の人々が生きていた空間、その文化は、再現のしようがない。文字にもできない。

科学が発達した現代において、自然とつながるといってもあまりにも多くの条件に阻まれている。

だが私は、「キツネにだまされる空間」を現代に復活させたいと思う。
現代の我々の知識や、自然科学と矛盾しない形で、
キツネにだまされるようになる方法は恐らくあるのである。

次週は、その話題を取り上げよう。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったか

2009年11月8日日曜日

村野四郎の身体詩

    霊魂の朝

    村野四郎


---「霊魂を食べて ふとるのよ」
というこえが どこかでしたので
急に胸がわるくなって目がさめた

厨房の扉があいていた
母親が瘠せた息子に もういちど
---「ベーコンを食べて ふとるのよ」
と言っているところであった

まこと肉と霊のだんだら模様の春だ
ユスラウメが咲いている

------------------------------------

色んな詩を読んだが、村野四郎ほど身体感覚が鋭敏な詩を書く人は見たことがない。
この詩・「霊魂の春」はダジャレの切り口によって、身体と精神のなまなましい関係を良く表している。

私たちの感覚は、視・聴・臭・味・触の5感が主であり、それらは全て体の表面の出来事だ。それも頭部に集中している。

しかし私たちの体の中では、血液の流れ、自律神経の調整、内蔵の蠕動運動、新陳代謝など、常に無数の現象が起こっている。ダイナミックな宇宙だ。

しかしその膨大な現象は、殆ど私たちの意識には上らない。
そしてそれを言語化することはなお難しい。

村野四郎はそれができる稀有な才能だ。

「体操詩集」という身体感覚の集積のような詩集も出している。

膨大な身体内の現象に比べれば
5感で感知できる世界は何と貧弱なことであろうか?
肉体の現象の海は、意識で作り上げる貧弱な知恵よりも遥かに優れて圧倒的な知恵の海なのだ。


*「霊魂の春」が冒頭に掲載されているのは 村野四郎詩集 (青春の詩集 日本篇 17) 白凰社

*ちなみに村野四郎は、童謡「ぶんぶんぶん」の作詞も手がけている人である。意外な一面もある。

2009年11月1日日曜日

イブ・クラインのモノトーンシンフォニー

イブ・クライン
50年代に活躍した前衛芸術家

感覚的世界解釈としては、彼ほどそれを具体的に行動にした人を私は知りません。
日本でもファンが多い。
日本語で読める多数のサイトがあるが、大まかな紹介はウィキペディア。

ウィキペディアでのイブ・クラインの紹介

寝転んで青い空を見ていると、その中に溶け込んでいくような感じになる--そんな感覚は誰もが経験すると思います。南仏ニース出身のクラインは、ニースの青空で十分にその感覚を味わいながら育ちました。
その空虚へ身を投じること。空虚への飛翔。彼の重要なテーマの一つです。

高いところから飛び降りるパファーマンス(飛び降りるのではなく、空虚へ身を投じたのですけど)を行い、その写真を新聞の1面に載せて発売しました。
彼の偉いところは、感覚的現象を社会的に機能するように仕掛ているところです。
理想の青い染料(インターナショナル・クライン・ブルー)を考案し、特許をとったりしています。

そんな彼が音楽も作りました。モノトーン・シンフォニー。下記のサイトで是非聞いてみてください。

モノトーンシンフォニー

(出展サイト Mr.M.Lews web site.
ART MINIMAL AND CONCEPTUAL ONLY )

聞いていると青い空を見上げているような、自分が溶け込んでしまうような感じにあります。

自分が消え入って溶け込むような感覚、それは錯覚ではなく、自分の感覚の源が本来そちらにあるというのが感覚的世界解釈の考えです。だから、空を見上げている感覚のほうが、本来の私たちの感覚なのだと考えるのです

↓こちらのサイトも興味深いです。 数多くのイブ・クラインの作品を紹介しています。
https://www.artsy.net/artist/yves-klein

2009年10月27日火曜日

細胞分裂の感覚

細胞分裂。
Youtubeで動画をさがしてみた。
なるべく感覚に訴えそうなものを。





どうです?細胞分裂って、中学か高校の生物で教わったものでしょう。
しかし、教科書の中でおこっているのではありません。今、この瞬間もあなたのカラダの中でブチブチを起こっているのです。
そういう自覚はないでしょう。私たちの哀れな意識は。
カラダがやっている大変な苦労を何も知らないのです。

動画をみていると、細胞はなんだか非常に苦労しているように見えます。

人間が人間を生むのも大変なことですが、細胞は自分が分裂するという大変なことをやっているわけで、分裂中は遺伝子の損傷も受けやすく、細胞としては一世一代時間です。
細胞分裂の感覚というものは、苦しみと恍惚が入り混じった、なんともいえぬ瞬間なのでしょう

2009年10月21日水曜日

心のありか

この前のブログで、「心なんて無い」ということを書きました。
読んだ方は、この人は無味乾燥な物質的な考えをもっているのではないかと受け取られたかもしれません。
しかしそうではありません。
私自身の強烈な体験から、そう結論したのです。

私は中学生くらいのときに、神経症を患いました。今では「パニック障害」という言葉でいわれているもので、最近では長嶋島一茂さんが、その病気の体験を語っています。
私の場合は、乗り物に乗れなくなってしまうというものでしたが、長嶋さんもそうだったようです。

この病気の特徴は、発作を起こすと過呼吸になって気分が悪くなり、ひどくなると気を失うというものです。私は気を失ったことはありませんが。
この病気は心の使い方が適切でないために起こります。
発作はなぜ起こるのかといいますと、
不安な気持ち、いつ不安発作がくるかわからない不安な気持ち。それに気持ちを集中してしまうとますます不安になり、心臓が高鳴り、呼吸があらくなり、そして発作がおこる・・・・
つまり、「発作がおこるのが怖い」という気持ちによって発作がおこるのです。
この矛盾。。。

私は、森田正馬という人が創設した療法で直しました。森田療法の特徴は、「あるがまま」ということです。なんのことはありません。
不安があってもそれがあるがままにして、日常生活を送れというものです。
不安があってもいいのだ。たまに発作が起きてもいいのだ。それで生活ができればいい。いつのまにか不安は消えていく、、、というわけです。
しかし乗り物に乗らなければならないときは・・・・大変です。・・森田療法ではそれを「恐怖突入」といっています。
恐怖に突入し、目的を遂げる。この場合はたとえば、電車に乗って目的地にいき帰ってくる。それだけのことです。しかし神経症の人にとっては、命を掛けた戦いなのです。

こうして、私は何度も恐怖突入し、そのたびに悲壮な決意と覚悟をもって目的を遂げてきました。何年もかかって、やがて症状は緩和していきました。

私は学びました。心には実体がないのだ。不安や恐怖には実体がない。あたかもそれが実体であるかのようにそれを凝視すると、ますます不安になり、ますます恐怖が大きくなり、自分で制御不能になるのです。

人間は怒りのために人を殺したり、悲しみのあまり自殺したりします。そのような極端な行動をとる契機として感情が語られるとき、あたかも感情が実体であるかのように語られます。そうではない。感情に基づいた行動をとるから、それが殺人や自殺という実体となって現れるのです。

2009年10月13日火曜日

スピリチュアル文化

スピリチュアル・カルチャーともいうべき潮流が今すごく盛んだ。

江原啓之氏の「スピリチュアル・カウンセリング」が大変な人気を得ているなど、前世などの考え方がかなり一般化しているようだ。

オウム事件の反省もあってだろうが、体系化・組織化された宗教には誰しも抵抗があるようだが、その代わり垣根が低いスピリチュアル文化が広く普及している。

ということは、現代日本の心的な風景は、オウム事件があったときと同じ、またはそれ以上に悪いのでしょう。共同体の喪失、人と人との絆の希薄さが一般化し、孤独で浮遊した現代人が不安や不満をかかえている。

僕はスピリチュアル文化にはかなり胡散臭さを感じているし、前世とか霊とかを無条件に受け入れる気にはなれません。
多くの人がそういう物語を必要としているということには、何か違和感を感じます。

ニューエイジ・サイエンスというのも、ちょっと・・・

スピリチュアル文化の根本には、心というものが何かの実体、または実体的な世界を作っているという発想があると思いますが、そもそも心ってなんでしょう?

心なんて、あるんでしょうか。
在るとしたら、どこにあるんでしょうか。

いや、お前は心があるはずだ、その証拠にこの文章を打っているではないかと反論する方もあろうと思います。
確かに何かの一連の現象が私にこの文章を打たせていますが、だからといって心という実体があるとは限りません。

実は心という実体は無いのでしょう。
心的な現象があるだけで、私という人も、私の心というものも、無いのでしょう。
楽しんでいるとか、怒っているとかの状態はあるのでしょう。しかし心という概念的なものは無いのです。
たとえて言えば気象ともいうべきもので、雨が降ったり風が吹いたりする現象はありますが、「気象」という抽象的な概念はどこにも無いのです。

心のほうもたくさんの種類があります。怒っている、悲しんでいる、笑っている、考えている・・・などなどその時々でいろいろな状態があります。
私というものも、色々あります。夫である私、会社員である私、通行人である私、アーティストである私、男である私。。。いろいろな私があり、どれも違います。だから、私という括り、私という作り物をこしらえて私の同一性を解釈するわけです。

昔と違って地域の共同体が希薄な今日、浮遊する現代人の精神は、私とか、私の心とかいうものの保障をもとめて、スピリチュアルの世界に駆け込むのでしょうか。

2009年10月10日土曜日

読んだ本

「哲学入門」  ヤスパース 草薙正夫訳 新潮文庫
高校2年のときに夏休みの課題図書の一つとして読んだ。
ヤスパースの著作の中では易しいといわれているが、やはり少し難しい。
今再読してみるとヤスパースの哲学する者としての態度は襟を正したくなる。
私の座右の書にしたい名著

「オウム帝国の正体」 一橋文哉 新潮文庫
オウムと暴力団の関係を描いたルポ。

「村野四郎 詩集」 彌生書房
アンコウの解体を描いた詩が教科書に載っていたので有名な詩人。
身体感覚・内臓感覚の描き方が秀逸。
私はこれも座右の書に上げたい。

「オウム真理教事件 完全解読」 竹岡俊樹 勉誠出版
「田島鉄也はどのように生きているか」思索篇をご覧ください。

「99.9は仮説」 竹内薫 光文社新書
ベストセラーの一つです。
ホーキングが虚時間を導入したいきさつが面白かった。
彼は計算のつじつまがあえば良く、虚時間が何かなんて考えもしない。
そもそも時間とは何かとか、どうでもよい問題ということ。
この世が実在しているかということには頓着しない。この諦観。
まるで荘子の「胡蝶の夢」を地でいってる。

「ブラジルの混沌」   ㈱アルク
この本借りるのは2度目です。
カーニバル、サッカー、アマゾン、ブラジリア近代建築。
矛盾に満ちた国の魅力を伝える本。
ブラジル現代美術の紹介が後半を占める。

2009年7月20日月曜日

展覧会初日

展覧会初日です。


















派手な本屋さんといった感じのシックで、しかしカラフルな空間。

















作品の極く一部






























一つ¥1,000.という超安値もあって今日だけで15個販売しました。


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非決定論的かつ未知な空間の販売


多種の本。オリジナル絵画で包まれ、封印、真空パックされており、本の題と中身を見ることはできない。1冊1000円。そのまま所有するか、パックと封印を破り本を読むか、購入者の決定に委ねられる。

2009年7月19日日曜日

搬入

明日から行われる展覧会の搬入をしてきました。
展示はカッコイイと思いますけど
一部未完成の部分があるので、明日朝手直し。
暑いでしょうけど来て損はしないと思います。

2009年6月23日火曜日

ああ読書

桜井邦朋 著
なぜ宇宙は人類をつくったか
-最先端現代物理学が解明した「宇宙の意思」

現代物理学の成果から生命、進化まで論じた好著
しかし、宇宙ができたときの物理量の選択に宇宙意思を見るというのはどうかな。


トーマス・ゴールド著
未知なる地底高熱生物圏-生命起源説をぬりかえる

著者のいうように、生命が誕生するような長く安定した環境は、地下世界にあったと考えるのは最もだ。従来のように海で生命が誕生したという説をとるのなら、凍りついたり、蒸発したりして生命誕生は困難なことだろう。


ブライアン・ジョセフソン著
ノーベル賞科学者ブライアン・ジョセフソンの
科学は心霊現象をいかにとらえるか

高名なノーベル賞科学者ジョセフソンは、超能力や心霊現象の研究に余念がないということである。
この書は異端の科学者ジョセフソンの30年にわたる思索論文集である。
ジョセフソンは超能力や心霊現象は「拡大された科学」によって解決できると考えている。
しかし興味深いのは、ジョセフソンが、量子力学・生命・意識を、一つのつながった現象と考えていることである。

2009年5月27日水曜日

本2冊

宇宙フラクタル構造の謎
竹内薫 著

荒唐無稽にもみえる最新物理学を
ざくざくと切り裂いてみせる快著。
惑星の配置が量子論で説明できるなど
興味津々の話題がたくさん。
フラクタルは無理数の次元を持っているが
現代物理を知ると次元の観念も揺さぶられ
ついに爆発してしまう。

特に興味深いのは惑星配列が量子力学で説明できること‐超ミクロの原則が超マクロの原則と共通していること。
また、素粒子のツィッターベヴェーグンク(光速ジグザグ運動)の説の紹介があり
それによるとこの光速ジグザグ運動はフラクタルであり、この運動の周波数が素粒子の
質量を決めているという。
だとすればフラクタルは森羅万象の現象の根幹である。
ちなみに、素粒子のフラクタル運動の次元は2次元であるとのこと。



アメリカ先住民の精神世界
阿部珠理 著

ラコタ族の生活に取材した著者の
彼らの生活・信仰・儀式などを詳述した本
ヴィジョンクエスト、サンダンスなど
厳しい修行や儀式などを紹介している。
これが「空間」と言うべきものだ。
しかし私がやろうとしていることは
現代物理学などが提起している問題も
「空間」に含める必要があり、それには時間がかかるであろう。

2009年3月22日日曜日

視覚によらない想像

「眼の誕生」という本を読んだ。
この本は、カンブリア爆発という進化史の爆発的進展がなぜ起こったのかということを 解き明かした本である。
著者は「光スイッチ説」を唱える。
目を持った生物の登場によって、捕食生物は獲物を正確に捕らえられるようになり、 被捕食生物は、逆に保護色、硬い甲羅、または逆に驚かすための派手な色に 自分の体を変化させざるを得なかった。
視覚の登場によって、世界が一変したのである。
まさしく開眼であった。

考えてみれば、コロンブスの卵のような、至極当たり前の説に思える。

さて、そうすれば、眼というもの、視覚という感覚が存在しなかった、先カンブリア代。
先カンブリア代の海を想像すると、荒涼とした海底に、僅かなウミユリみたいな生物が フラフラ揺らめいている様を想像するけれども、 そのような視覚が存在しないかったのだから、そのような想像の仕方は間違っている。
とすれば、視覚によらない想像とは なんだろうか。
まさに自分自身が太古の海や太古の生物そのものになること

生理的な直感
直接的な観取

そのようなものでしか想像できないはずである。
しかしそれは可能であろうか。

2009年2月25日水曜日

クロソウスキー

ピエール・クロソウスキーの「かくも不吉な欲望」を読んでいるが、悲しいことに
全く理解できない。
難しい本はたくさん読んできたが、これほど理解しがたい文章は初めてだ。
訳者も後書きにて、「クロソウスキーの文章は非常に読みにくい」と言っている。
しかし、読みにくいということ以上の何かがある。
文章全体から、何かタダならぬ気配が漂っており、容易に通り過ぎることを許さない。
狂気の上に紙が一枚敷かれているような、言葉は狂気との取引であることを知っているような、確信犯めいた書き方だ。
これは謎だ。

2009年2月15日日曜日

東京ディズニーランドにいってきました



先日、4歳の娘と妻と東京ディズニーランドに行ってきました。
それはそれで非常に楽しいことであり、娘がはしゃいでいるのは、親として喜ばしいことです。
娘との時間はとても楽しかったと正直にまず言っておきます。

それはそれとして・・・

数多くはないですが、東京ディズニーランドには過去数回行ったことがあります。そして、毎回、何とも言えない違和感を感じてきました。それは、遊園地だから、子供向けの施設だからというものとはまた違った種類の違和感です。今回、その違和感の正体が解ってきました。

それは、東京ディズニーランドは、この現代社会そのものであるということです。
つまり、現代社会に生きていて感じるのと同じ違和感を、東京ディズニーランドに行くと、より強く感じるということです。

その特徴は、次の2点に集約されます。

1.全てが人工物(作り物)であること。
2.全てが記号であること。

アドベンチャーワールドや、ウェスタンワールドと呼ばれる地域に特に顕著に見られます。岩、家、森にいる動物やインディアンなど、全てはハッキリとそれとして認識させるように作られています。
そして、岩も家も動物も、驚くほど「良く出来ている」のです。その製作者の努力には感心するのですが、いささかうんざりさせられる代物には違いありません。
アミューズメントパークというものは、そもそもそういうものです。記号的な造形物によって人々の気を引きつけるものです。
しかし、東京ディズニーランドの懲り方は、並の遊園地のそれではありません。どこから見ても古い材木の家が、コンクリートに着色したものであったりするのです。


しかし翻ってみると、それは、記号と人工物に囲まれた我々の生活そのものです。
東京ディズニーランドに行って感じるのは、このぞっとするほど良く出来た仕組みを目の当たりにさせられるからです。
はたして僕たちの意識や感情も、この「良く出来た仕組み」から本当の意味で自由だと言えるでしょうか。



今回、2つの「発見」をしました。

ミッキーマウスと握手した時のこと。手袋の中に確かに人間の手の感触を感じました。非常に小さい手でした。恐らく女性でしょう。ミッキーの身長は150cmくらいです。小柄な女性が入っているのだと思います。着ぐるみの中に人がいることなど、わかりきったこととはいえ、確かな身体を感じたことは、一つの「発見」ではありました。この人は1日に何人の人に愛想を振りまくのでしょうか。大変な仕事です。「頑張ってねミッキー」と私が言うと、胸に手を当てて感謝しているような素振りをしました。

パレードを待っているとき、パレード通行路に警備員が立って、鋭い目を観客に向けていました。テロや(秋葉原で起きたような)無差別殺傷を警戒してのことでしょう。警備員がいるということで、潜在的な凶悪犯に無言の圧力をかけているのでしょう。